賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >中等学校選手権大会で無失点優勝 天覧試合に3度出場した戦中派“マケレレ” 宮田孝治(中)

中等学校選手権大会で無失点優勝 天覧試合に3度出場した戦中派“マケレレ” 宮田孝治(中)

明治神宮大会の中学初代チャンプ

 なでしこジャパンのワールドカップ優勝おめでとう――書きたいことはいろいろあるが、こちらの連載も先を急ぐ――に前回に続いて、1950年代の日本代表のHB(守備的MF)宮田孝治さん(1923年1月15日生まれ)の話である。
 実業団の田辺製薬で、実業団選手権大会7回優勝、94戦無敗という驚異的な記録を持つチームの中心で、例え話としてスケールを大きくすれば、レアル・マドリードでのマケレレの役割ということになるだろう。先月号では神戸一中(現・神戸高校)4年生のときに1938年夏の全国中等学校選手権大会(現・全国高校選手権大会)で優勝したところまで紹介した。
 今の年齢別大会に例えると、U-17の全国選手権ともいうべきこの大会は、当時、師範学校という小学校の先生の育成学校をも含んでいて、その師範学校には中学生よりも2歳年長者もいたから、U-17でありながら、U-19のチームも交じっていた――というより、強チームの多くはU-19であった 15歳だった宮田さんは、相手によっては4歳の年齢差があったことになる。そうした年齢差や体格差を克服したのは、神戸一中の選手たちの個人技術の高さとチームワークだった。地域予選を経た16チームのノックアウトシステムの大会で、神戸一中は1回戦で豊島師範(東京代表)を3-0で破り、次いで海星中学(北九州代表)に勝ち(3-0)、準決勝で朝鮮地方代表の崇仁商業を倒し(2-0)、決勝で滋賀師範(京部・滋賀・奈良代表)を5-0で下して、5回目の優勝を遂げた。
 当時からサッカーの盛んな朝鮮地方代表は高レベルで、こことの試合は“大会の白眉”といわれた。まだ体ができていなかった宮田さんは1回戦に出場しただけだったが、予選から本大会決勝まで無失点という例のない記録をつくった優勝チームに名を連ねる栄誉を被った。
 次の年、5年生となって体が充実し、“小さな宮田”にたくましさがつき、第21回全国中等学校選手権大会にはレギュラーとして戦った。残念ながら、この大会はチーム全体のコンディションが悪く、準々決勝で敗れたが、幸いなことに、この年の秋の第10回明治神宮国民体育大会のサッカーに、新しく中等学校の部、師範学校の部が加わることになり、予選を突破して出場した。12チームで争われた(ノックアウトシステム)大会で、神戸一中は1回戦不戦勝、準々決勝で北海中学(北海道代表)を6-0で破り、準決勝で広島一中(中国代表、選手権優勝)を3-2で倒し、決勝は明星商業(大阪・和歌山代表)に1-0で勝って、初代の神宮大会中学校チャンピオンとなった。ちなみに、夏の大会に不参加たった朝鮮代表の培材中学は、この大会には参加し、1回戦で東京府立五中を1-0で下したが、準々決勝で明星商業に1-2で敗れている。
 この大会は、主催がそれまでの明治神宮体育会から厚生省に移った初めてのもの。昭和天皇が各会場に臨席され、サッカーでは中学優勝チームと師範学校優勝チーム(広島師範)が10分間の天覧試合を行った。短時間ではあったが、神戸一中が1得点して1-0で勝った。ご説明役の竹腰重丸さん(故人、第1回JFA日本サッカー殿堂入り)によると、陛下は時に身を乗り出し、熱心に観戦されたという。これ以来、宮田さんは3度、“天覧”に出場する。


大学1年でレギュラー 最もクレバーなMF

 1940年に神戸一中を卒業すると、早大理工学部に入り、当然のようにア式蹴球部ヘ――。伝統ある早大で予科(高等学院)の1年生で関東大学リーグに出場する。
 ライバルの慶大には神戸一中36回生の二宮洋一さん、東大には37回生の加藤伸幸さんがいた。宮田さんは私より2歳上の41回生だから、ここでも年齢差の大きい相手と戦ったのだが、当時、日本の最高峰の慶大の名FWの二宮さんは私に「早大では、宮田が最もクレバーなサッカーをするといっているよ」と話ってくれた。
 次の年から太平洋戦争が始まり、やがて戦局急迫のためにスポーツ活動は中断される。1945年夏に戦争が終わり、やがてサッカーも復活、大学を出て田辺製薬に入社していた宮田さんは早速、仲間とボールを蹴り始め、1947年4月、関西代表となって大戦後に復活したビッグゲーム、東西対抗に出場する。その試合が試またまた、昭和天皇の“天覧試合”となった。


(月刊グラン2011年9月号 No.210)

↑ このページの先頭に戻る