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34歳で4日連続試合 現役を退いた後も16年間、チームを指導 老舗企業チームの最高の師表 宮田孝治(下)

天覧試合を足場に代表へ

 前号までで、宮田さんの成長期を語り、この号は大戦後から………。
 米軍の爆撃で焼け野原となった日本だが、サッカーの再開は比較的早い方だった。復員してきた選手たちはグラウンドとボールを見つけては、集まって試合をした。
 東西対抗という公式の試合が、数少ない芝生のグラウンド、西宮球技場で1946年2月に一般選抜(社会人)対学生選抜の対抗戦というかたちで行われ、その年の5月には変形ながら全日本選手権決勝が東京で、秋には第1回国体が戦災のなかった京都を中心に開催、関東と関西でそれぞれ大学リーグもスタートした。そして、翌47年4月、東京で「復活第1回東西対抗 全関東対全関西」が行われた。会場は昔からの神宮競技場。当時はアメリカ古領軍の管理下にあり、ナイルキニック・スタジアムと名を変えていたが、使用OKとなり、昭和天皇のご臨席もあって、満員の観衆がコンクリート作りのメーンスタンドも、土盛り芝生席のバックスタンドもぎっしりと埋めた。
 試合は2-2。ベルリン五輪代表世代数人とその次の幻の東京五輪(40年開催予定=中止)世代のベテランを集めた全関東と学生選手主体の全関西が激しくぶつかって、迫力あるゲームだった。宮田さんは同世代の賀川太郎、則武謙や全関西で少し後輩の鴇田正憲、杉本茂雄たちとともに戦い、ベルリン五輪で活躍した加茂兄弟(早大OB)や二宮洋一、篠崎三郎(慶大OB)たちの攻めを防ぐのに懸命だった。
 この東西対抗の後、日本代表の主カは若い西軍の方に移ることになるのだが、宮田さんの守備力も認められて、第1回アジア大会(51年、ニューデリー)、第2回アジア大会(54年、マニラ)などに出場した。


田辺製薬で7回優勝

 宮田さんが1946年に入社した田辺製薬は、社長の田辺五兵衛さん(第1回日本サッカー殿堂入り)が27年に自ら監督となって、当時の田辺五兵衛商店の中にサッカーチームをつくったのがスタートという、薬と同様にサッカーもまた“老舗"だった。戦争終結後、田辺さんは「大学を卒業した後もプレーを続けられるようにすること。いい選手を集めて、各チームの目標になるチームをつくること」が、日本サッカー復興のためよいと考え、会社のチームを強化した。宮田さんはその第1号だったといえる。
 47年に加雌信幸(東大、第1回アジア大会代表)、48年に賀川太郎、50年に鴇田正憲(第2回サッカー殿堂入り)、和田津苗(第1回アジア大会代表)が加わって充実し、全国実業団選手権大会の第3回大会で初優勝し、以来、6年連続優勝して、実業団というカテゴリーでは無敵を誇った。日本代表の数人を中核とし、個人技術が高いだけでなく、攻守のチームワークもよかったから、おそらく天皇杯に出場すれば何回かはチャンピオンになったはずだが、田辺さんはあくまでも実業団(企業チーム)での試合というカテゴリーから外へ出なかった。
 それだけに、実業団大会でのタイトルヘの執着心は強く、7回目の優勝をしたときは賀川、宮田はそれぞれ35、34歳。4日連続の試合にフル出場している。
 技術がしっかりしていて、若いうちに体を鍛えたからといっても、アマチュア選手のこと、34歳を超えての4日連続試合を戦い抜く気概の強さは驚くべきものだ。
 実業団大会とは別に、54年の国体に大阪代表として出場して優勝。この決勝が天覧試合だったから、賀川、宮田の2人は中学生以来3度、昭和天皇の前でプレーをしたことになる。
 同世代の賀川は鴇田とのペアプレーやデットマル・クラーマーに高く評価されるなど古い選手の中では光が当たったのに比べ、HBの宮田さんは守備の方に重点がかかり、いささか地味で、華やかさに欠けたが、その功績は知る人ぞ知る――。
 選手としての役割が終わった後も、宮田さんは60年から16年間、監督として会社のチームの面倒をみた。会社のチーム強化の姿勢も変わったが、宮田監督のサッカーへの熱意と基本を重んじる指導は変わることはなかった。日本で最古の企業チームは田辺三菱製薬サッカー部と名を変えたが、最高の師表、宮田孝治の名は消えることはない。


(月刊グラン2011年10月号 No.211)

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