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日本サッカーを応援、バックアップした FIFA会長 サー・スタンレー・ラウス(上)

JFA創立とシルバーカップ

 さる9月12日、東京のホテルグランドパレスで日本サッカー協会(JFA)創立90周年パーティーが開かれた。席上、サッカーの母国、イングランドのFA(FootballAssociation=イングランドサッカー協会)から寄贈のシルバーカップが披露され、小倉純二JFA会長があいさつのなかでこのカップのいきさつに触れ、あらためてFAに対して感謝の言葉を述べた。
 このFAからのシルバーカップとJFA創立のいきさつは『このくに と サッカー』の連載でも紹介(2006年12月号・内野台嶺など参照)しているが、もう一度、おさらいをする。
 1917(大正6)年、まだJFAの誕生以前に、東京で行われた第3回極東大会という総合スポーツ大会のサッカーに初めて日本が参加、東京高等師範学校が代表として出場し、フィリピン(2-15)と中華民国(0-5)に2戦2敗、大敗ではあったが、初の国際試合は全国的に大きな刺激となった。
 翌年、1918年に、関東、東海、関西でそれぞれ「フートボール(サッカー)大会」が開催された。
 そのサッカー興隆の勢いを見た駐日英国大使館勤務のウィリアム・ヘーグ書記(1891〜1923年、第5回日本サッカー殿堂入り)たちの提案を受けて、英国大使館がFAに日本へのシルバーカップ寄贈を要請し、これを受けたFAが1919年3月にシルバーカップを船使で駐日英国大使館宛に送り届けた。
 英国大使館からの連絡を受けて、当時の東京高等師範の嘉納治八五郎校長(1860〜1938年、柔道の講道館長としても有名)が同校の内野台嶺教授(1884〜1953年、第3回殿堂入り)とともに大使館でカップを受け取り、まず、全国大会を開催すること(勝者にシルバーカップを贈る)、そのためには日本サッカーを統轄する組織(協会)をつくることとして、内野教授がこれにあたることになった。
 1921年9月10日、FAからのシルバーカップがきっかけとなって、大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)が誕生、初代会長、今村次吉(1881〜1943年、第1回殿堂入り)のもとで、この年11月に第1回全国優勝競技会(現・天皇杯)が始まり、第1回優勝チームの東京蹴球団、山田午郎主将に当時のエリオット英国大使からシルバーカップが贈られた。


90年前のヘーグさん 50年前のラウスさん

 一部重複することにはなったが、あえてJFA創設のきっかけとなったシルバーカップが「駐日英国大使館の要請を受けて、イングランドFAが寄贈した」という事実をあらためて確認するためで、FAが日本へのカップ寄贈を決めたいきさつについては、新しい記録が発掘されるまで、推測による誤解もあったからでもある。
 東京の駐日英国大使館勤務の後、一時帰国したヘーグさんは横浜領事館の副領事となり、日本サッカーヘのアドバイスも惜しまなかったが、不幸にも関東大震災のために亡くなられたのだった。
 そのヘーグさんの尽力でシルバーカップは日本の全国大会の象徴となったが、1945(昭和20)年1月に政府の銀製品回取に協力する日本体育協会の方針に従って、JFAもシルバーカップを供出してしまう。大戦中の国への協力とはいいながら、誠に惜しいことをしたのだが……。この失われた銀製のカップをJFA創立90周年に復刻しようとする考えがJFA内部にあり、その許可をFAにたずねたところ、FAのディビッド・バーンスタイン会長から「自分たちでもう一度作って寄贈したい」との申し出があり、今年8月にウェンブリースタジアムで小倉純二会長がバーンスタイン会長から再生カップを受け取ったのだった。
 90周年にあたって、私たちはイングランドのサッカー人、FAの厚意にあらためて感謝しなければなるまい。――となれば、まずはヘーグさん、その人について記すべきかもしれないが、それは次の機会として、私はもう一人、日本サッカーをバックアップし、大きな力を与えてくれた英国紳士、サー・スタンレー・ラウスFIFA会長(1895〜1986年)の話を届けたい。1961年から1974年までのFIFA会長で、古くはFAの事務局長であり、戦前にすでに田辺五兵衛JFA副会長(1908〜1972年、第一回殿堂入り)と交流のあった人である。


(月刊グラン2011年11月号 No.212)

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