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東京オリンピック5、6位決定 大阪トーナメントをバックアップした 第6代FIFA会長 サー・スタンレー・ラウス(中)

小学校の校長からFIFA会長に

 東京・神田の日本サッカーミュージアムには、サッカー界で特に功労のあった先人を称える「日本サッカー殿堂」がある。英語でいえば「THE JAPANESE FOOTBALL HALL OF FAME」――。
 2005年に始まったこの殿堂に掲額されているのは58人。釜本邦茂(メキシコ五輪得点王)や彼と並ぶ名FW、杉山隆一などの名選手や明治時代から日本サッカーの普及に取り組んだ坪井玄道さん(東京高等師範学校=現・筑波大学=教授)たちの中に2人の英国人、ウィリアム・ヘーグさんとクリストファー・マクドナルドさんの肖像銅板も掲げられている。ヘーグさん(1891〜1923年)は前号で紹介した通り。大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)発足時の大功労者であり、マクドナルドさん(1931年生まれ)は1950年に来日して以来、60余年の在日中、JFAとFIFA(国際サッカー連盟)あるいはFA(イングランド協会)とのパイプ役を務め、日本サッカーの国際化の大きな力となった人。長身で東京のサッカーチームではGKとしてもプレーし、私の兄、太郎もチームメートであった。
 このマックさん(マクドナルドの愛称)が親交し、尊敬していたのが"サー“の称号を持つスタンレー・ラウス第6代FIFA会長だった。
 1895年4年25日生まれのサー・スタンレーは、マックさんとは35歳も離れているが、イギリス人の中でも大柄でアマチュア選手時代のポジションがGKだったところはよく似ている。小学校の校長先生からスポーツの指導者となり、レフェリー部門でも頭角を現して国際審判を務め、1934年から18年間、FAの事務局長を務める。対角線審判法を考案した賢明なレフェリーは、FAの管理者でも成功し、ここを足場に61年のFIFA会長選挙に勝利して、第6代会長に就任した。79歳のときの74年の会長選挙でジョアン・アベランジェに敗れて名誉会長となったが、会長在職中に62年チリ、66年イングランド、70年メキシコ大会と3回のワールドカップ、64年東京、68年メキシコ、72年ミュンヘンと3回のオリンピックを成功させている。
 学校の校長、国際レフェリーの経歴の通り、華美より質実を好み、常にルールの基本、フェアプレーの精神を説き、清廉なジェントルマンである一方、ユーモアを交えたスピーチと洒脱な会話は人を楽しませ、政治問題の絡むことの多いFIFA会議の運営、進行は誠に鮮やかだったという。


理想実現への実務能力

 日本が東京、メキシコのオリンピックに向かって代表強化と国内での普及に懸命だったころに、サッカー発展が自分のすべてという。“公平"なラウスさんがFIFA会長であったことは、誠に幸いといえた。
 特に私が忘れ難いのは、東京オリンピックの5、6位決定戦を大阪を中心に開催したことだ。
 東京周辺だけでなく、関西でもオリンピック・サッカーを開催したい、グループリーグの一つを大阪で行いたいといった関西側の提案は、オリンピック組織委員会からは拒否されたが、関西側の願いを受けたFlFAの提案「準々決勝で敗れた4チームを西下させ、ノックアウトシステムの5、6位決定戦を行う」を組織委員会の与謝野秀事務総長が受け入れ、FIFAとJFAの責任で大会期間中に東京オリンピック5、6位決定・大阪トーナメントが新設の長居陸上競技場のこけら落としとして開催された。
  「他の競技のように5、6位の表彰があってもよい」という、これまで(表彰は3位まで)の発想を変え、開催国サッカーの発展のために、新しい試合を設ける。それもすでに決定しているスケジュールに影響することなく、オリンピック組織委員会にも新たな負担をかけない――という実際的な考えだった。大会は成功し、私たちはラウス会長とFIFA理事たちの理念と実務の的確さに驚くことになった。私自身は後に大阪女子マラソン(現・大阪国際女子マラソン)を通じて、長居とのかかわりを深めてから、この東京オリンピックサッカーの長居開催が大きな布石となって、長居が屋根付き5万人収容に変貌し、2002年ワールドカップ会場となってゆくのを知った。


(月刊グラン2011年12月号 No.213)

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