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日本が半世紀前に学んだ 第1回FIFAコーチング・スクールを開催 サー・スタンレー・ラウス(下)

フェアプレーを賞賛

 11月26日、神戸親和女子大学で開催された「ユーハイム・スポーツフォーラム」に参加して、JFA(日本サッカー協会の田嶋幸三副会長の『幼児・ジュニアの運動・スポーツ能力を高めよう』との基調講演を聞き、参会者の熱意に感嘆しながら、JFAが半世紀前から取り組んだ、コーチ、指導者育成の成果をあらためて見る思いがした。
 そして、そのきっかけとなったのは1969年7月15日〜10月18日に千葉県・検見川グラウンドで行われた第1回FIFAコーチング・スクールであったこと――。あの天才的なコーチ、デットマル・クラーマーの提言を取り上げたのが、肖時のFIFAのサー・スタンレー・ラウス会長たったこと――があらためて感謝の念とともによみがえってきた。
 サー・スタンレーは1895年生まれ。日本流にいえば、明治28年だから、NHKの超大作ドラマ『坂の上の雲』の日清戦争の2年目にあたる。したがって、第6代FIFA会長に選ばれた1961年は66歳、以来、74年までの13年間の在任中に62、66、70年と3度のワールドカップと3回のオリンピックを経て、世界のサッカーを発展させ、ワールドカップをオリンピックと並ぶ大きなイベントにした。
 彼の後を継いだジョアン・アベランジェ第7代会長の積極策で、世界のサッカーはさらに大きくなり、第8代ジョセフ・ブラッター会長によって、財政も安定して、今や財界最大のスポーツ団体となっている。この2人と見比べると、第6代会長は少し地味に見えるが、60〜70年代の国際的な問題がスポーツにも波及した時期、あるいはアベリー・ブランデージという“アマチュア主義"の権化のようなIOC(国際オリンピック委員会)会長との確執のあったオリンピック参加、そして、サッカーそのもののなかでのファウルプレーや八百長事件などさまざまなトラブルを処理していく能力と機知と人柄は、今も高く評価されている。
 前号で紹介した「大阪で束京オリンピックを」という関西人の願いを受けて、東京オリンピック5、6位決定・大阪トーナメントを開催したのも、その能力の一つだろう。
 自ら国際審判であった経験から対角線審判法を考案し、それが今も踏襲されていることはよく知られているが、フェアプレー重んじる会長は、1962年のワールドカッブ・チリ大会中に、ヨーロッパ、南米勢の対抗意識からファウルが多発したとき、会長声明を発して、各国代表選手の自制をうながし、大会の運営をスムーズにした。
 1968年のメキシコ・オリンピックのときから、イエロー、レッドの両カードを採用したのも、この会長の下だが、罰するだけでなく、フェアプレー・トロフィーを作って、フェアプレーを称えることも忘れなかった。日本の銅メダルチームがフェアプレー賞を受賞し、今度の“なでしこ"もまた優勝とともに、この賞を受けている。


未来への布石

 サー・スタンレーはレフェリーで多くの国際試合を経験し、自ら健康でもあったから、ヨーロッパだけでなく、世界各国を巡って実情を知り、後進地域の技術力アップを図ることを考えて、各国に万能なコーチを派遣することにした。1964年の東京オリンピックで開催国日本の代表強化、指導者育成に実績のあったクラーマーと契約した。「このような著名なコーチとFIFAが契約するのは初めて」だったが、その効果は前述のコーチング・スクール、あるいは各地の巡回コーチに表れた。クラーマー以外にもフランス語圏、スペイン語圏などへもコーチを送り込んだ。
 そうした地味な“未来への布石"が、ワールドカップ参加国拡大という次代の積極策とともにアフリカ、アジアのレベルアップにつながり、今日の世界の発展を見るのだが、日本サッカーの現況を見れば、第1回FIFAコーチング・スクールを実施したことが、どれほど大きなプラスであったかを知ることができるだろう。


(月刊グラン2012年1月号 No.214)

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