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温かい人柄とユーモアで世界をリードし日本を励まし、助けた第6代FIFA会長 サー・スタンレー・ラウス(続)

財布とネクタイピン

 「FIFA会長サー・スタンレー・ラウス氏がまだFAのセクレタリーであったころ、三匹のライオンと十輪のバラの花のFAの紋章がついた財布をもらった。もう十年にもなるだろう。
 今度のオリンピックで会ったとき、あなたにもらった財布だと出してみせたら、彼はネクタイピンを示しながら、これは君にもらったものだといった。
 とたんにうれしくなってしまった。
 彼は人情こまやかな紳士である。

 友あり遠方より来たる。また楽しからずや。」(田辺五兵衛『烏球亭雑話』より)

 田辺五兵衛さん(第1回日本サッカー殿堂入り、1908〜72年)がJFA(日本サッカー協会)機関誌に62年10月号(第24号)から10年間連載したメモ風の随筆『烏球亭雑話』はとても面白い読み物だった。機関誌第46号に掲載されているこの小文は、田辺さんが36年のベルリン・オリンピックを視察した後にロンドンを訪れて、当時、FA(イングランドサッカー協会)事務局長であったラウスさんに会ったところから始まる心温まるエピソードである。若きFAの事務局長がFIFA(国際サッカー連盟)会長となって日本を訪れたときに、かつての日本のサッカー仲間からのプレゼントを身につけてゆく――というところに、ラウスさんの人柄、人の上に立つ者の気配りが感じられる。
 FIFA会長に選出される前、前述のFA事務局長を34年から27年間務めたが、保守的傾向の強いイングランドのサッカーの変革を図ったのも、大きな功績とされている。それまではフットボーラーは自然に育つもの――といった考えの強かったこの国で、指導力アップを唱え、コーチの養成、若年プレーヤーの育成にも目を向けさせた。ウォルター・ウィンターボトムをFAの長期ヘッドコーチにしたのもラウス事務局長だった。そのウィンターボトムによると「彼がFAでの27年間に成し遂げた仕事は世界中から高い評価を受けているが、それは彼のユーモアと物事の読解力に負うところが多い」といっている。
 先述した大阪トーナメント(64年の東京オリンピックのときの5、6位決定戦)実施の前年、長居陸上競技場の視察を終えた日の夜、関西側があるクラブでささやかなレセプションを催したとき、スピーチを求められたラウスさんはこういった。
 「シェイクスピアは彼の戯曲『アントニーとクレオパトラ』の中で“美女とともにいるときに言葉は必要ない”といいました。今夜のようにごちそうが並び、美女がたくさんおられる前でのスピーチは長くないほうがいいでしょう。ともかく、大阪トーナメント5、6位決定戦の成功を願うことにしましょう」と。


ウェンブレーは英国?

 ラウスさんにとって、FIFA会長のときに母国イングランドで、1966年、ワールドカップを開催し、初優勝したことは大きな喜びだった、その大会に国交のない北朝鮮が参加して、国旗がウェンブレー・スタジアムにひるがえっているのを見たある英国外務省のお偉方が「国交のない国の国旗を掲げるのは法に違反している」といったのに対し、ラウス会長は「はて、ウェンブレーは英国領でしたかな」と応じた。「ワールドカップではすべてのチームの参加をすでに政府が保障しているのだから、今さら、国旗を問題にしてほしくない」との意味を込めてのやんわりとした切り返しだが、その高官も「そういえば、あれは、どこの国の旗だったか」と流し、以後、国旗問題は出なかったという。
 86年のワールドカップ・メキシコ大会の開催中に体調を崩し、間もなく亡くなった。81年2月にウルグアイでラウス名誉会長に私が久しぶりに会ったとき、地元テレビのインタビューを受けながら、当時、第1回開催間近なトヨタカップ(現・FIFAクラブワールドカップ)に話が及んだとき、「南米と欧州の非公式のクラブ世界一を争う試合を日本で開催することは非常に素晴らしいことだ。ウルグアイでのコバ・デ・オーロ大会に、ミスター・カガワが取材に来ているように、日本人のサッカーヘの熱意は素晴らしい。その国でのトヨタカップ開催は大きな意義がある」と答えていた。
 偉大なサッカー人を失って25年が過ぎた。この人のことをよく知る英国人のクリストファー・マクドナルドさん(第8回日本サッカー殿堂入り)が2011年12月2日に亡くなった。マックさんからサー・スタンレーとの交流の話も聞きたかったのに――。


(月刊グラン2012年2月号 No.215)

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