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早大の連覇に貢献しマニラでの敗戦から日本の課題を鋭く指摘 堀江忠男(中)

見せられなかった進化の証

 Uー23代表の対マレーシア戦(2月22日)で、酒井宏樹が相手のペナルティーエリア内まで走り込んで先制ゴールを決めた。その2日後のキリンチャレンジカップで、日本代表はアイスランドを3-1で破ったが、この試合での前田遼一の先制ゴールは、左サイドをドリブル突破した左DFの槙野智章がエリア内に持ち込んで、フワリと浮かせた見事なクロスが生きたものだった。
 全員で攻め、全員で守る現代のトップ級のサッカーでは、サイドのFBは攻撃の能力も期待されることになる。
 この連載の主人公、堀江忠男さんが選手として活躍した1930〜40年代は、FBは文字通り、後方の仕事(守り)が主とされていたころ、同時に2FBから3FBへの移行期で、ゾーンからマンツーマンヘという変化の時期たった。
 そういう変革期に、関東大学リーグで早大が黄金期を迎え、堀江さんは在学中に3連覇の栄光を担う、このころの早大は、ドリブラーでシュートの名人といわれた川本泰三を中心とするFWの得点力が高く、また鈴木(高島)保男、堀江の両FBや、立原元夫、笹野積次といった強力HBがいて、リーグでも東西学生一位対抗でも圧倒的な強さをみせた。
 1934年の第10回極東大会の日本代表には、この早大からの6人、西の関西学院大からの6人を主に17人が選ばれて、マニラでの試合に臨んだ。堀江さんも当然のように選ばれ、レギュラーとして3試合に出場、関学OBのベテラン、後藤靱雄(第9回極東大会代表)とペアを紺んだが、第1戦の対オランダ領東インド(現・インドネシア)に1-7で敗れ、次の対フィリピン(4-3)に勝ったが、対中華民国(3-4)にも敗れ、1勝2敗の結果に終わった。
 4年前の第9回極東大会でフィリピン(7-2)を破り、中華民国(3-3)と引き分け、東アジアで中華民国と並んでトップに立ったと喜び、その4年後の進化の証をみようと自信をもってのマニラ大会だったのだが……。


国際交流の必要性

 関東と関西から優秀なプレーヤーを選抜しながら、その優れた個人技術を融合することができなかった――あるいは、コンディショニングの失敗――ともいわれた。リーダーの竹腰重丸監督が政治課題である“満州国"の大会への加盟問題にかかわって、チーム練習の指導が十分でなかったことがあったらしいともいわれた。
 さまざまな反省の中で、堀江さんの意見はほかの選手たちと違っていた。
 「戦術という点では、どのチームも学ぶべきものは持っていなかった。負けたのは全く個人的、基礎的な技術の差である」とその差について述べている。ここまでは他のプレーヤーの指摘と同じだが、この後にこういっている。
 「今後、どうするのか、まず、われわれが劣っている基礎技術を完成せよということはもちろんだ。しかし、もっと根本的にはこういえるだろう。
 日本の蹴球界は現在、全く国際的な刺激に欠けている、日本のフットボールが世界的な水準に達するためには、世界的な舞台を望む必要があるのではないだろうか?
水泳、陸上、庭球などをみても飛躍的成長を遂げたのは、国際的ゲームがたびたび行われるようになってからだ。
 フットボールでも4年に1度の極東、いや東洋選手権大会でジャワあたりのプレーを見て、すごいシュートだ、すばらしいボールコントロールだなどと感心して帰ってきて、それから4年間、一生懸命、ジャワのマネをするという調子では埒が明かない。
 惨敗を覚悟でイギリス、ドイツあたりヘチームを送るとか、あるいは南米からすぐれたチームを招くとか、なんとかして島国の中で小さく固まってしまった蹴球に画期的な刺激を与えることが望ましい。外国人のプレーを本からでなく直接に学び取り、また、彼らの欠点を研究する機会を得て、日本人独自のフットボールをつくり上げることができたら、そのとき、初めて日本の蹴球界は世界的水準に到達するであろう」
 21歳の学生であった堀江さんは、敗れた悔しさの中からフットボールの世界の広さを知り、国際交流の必要を説いていた。この2年後、「惨敗を覚悟してもチームを送ろう」といったドイツ、そのベルリンでのオリンピックに自ら参加することになる。


(月刊グラン2012年4月号 No.217)

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