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2FBから3FBへの本番直前の大転換に成功 ベルリンの奇跡をつくったディフェンダー 堀江忠男(下)

日本の原点、36年ベルリン五輪

 日本サッカーの長い歴史の中で、その時々に高い実績を残し、後にまで影響を及ぼした“先達"を紹介するこの連載は、今年の3月号から堀江忠男さん(1913〜2003年)を取り上げ、今回が3回目となる。
 今から66年前の1936年8月、ベルリン・オリンピックで、五輪初出場の日本代表が優勝候補の一つであったスウェーデンを破った。「奇跡の逆転劇」は日本サッカーを語る上で、68年のメキシコ・オリンピックの銅メダルとともに忘れることのできない快挙だが、世界のサッカーの歴史でも、大型プレーヤーが多く、パワフルなスウェーデンに対して、国際的にも無名の小柄な日本人選手が敏捷さを生かした組織力で対抗し、0-2の劣勢をひっくり返して3-2とした稀有な試合の一つでもある。
 この試合では3点を奪い返した日本の攻撃が注目されたのは当然だが、ヨーロッパ到着後に新しい守備戦術を学び、短時日の間にそれをマスターしたDF陣の功績もまた大きいとされている。
 それまで日本のフォーメーションは、GKの前の2人のFBが守備専門となり、その前に3人のHB(ハーフバック)が位置した。その中央のCH(センターハーフ)はロービングCHといわれ、名のごとく「動き回る」ことで攻守の要となった。その前方には5人のFW(フォワード)が位置されていた。中央の先端にCF(センターフォワード)――いわゆるストライカーがいて、右と左のタッチライン近くに右ウイング、左ウイングが開いていて、この3人のやや後方にインサイドFWが展開して、守りから攻めへのつなぎ役となっていた。
 関東大学リーグ優勝の早大も、日本代表チームも、ほぼ同じフォーメーションだったが、ドイツに到着して、ベルリンのクラブとの練習試合で、世界はもっと新しいフォーメーションをとっていることを知った。それは相手側のFWの攻撃力が増大していたこと、オフサイドのルールがそれまでの3人から2人に変わったのが主な原囚だが、特に得点力があるCFには常に監視役がついていなければ、どんどん得点されるからだった。
 そこで、日本代表もCHであった種田孝一を後退させて、相手のCFをマークさせるとともに、右FBの堀江さん、左FBの竹内悌三とともに3FBの防御隊形をとることにした。
 サッカーは相手のあるスポーツだから、自分たちの戦うチームのレベルや戦術を見て、対応するのは当然だが、それまでの手馴れた守りの形を本番の前に大幅に変更するのは、やさしいことではない。幸いなことに、竹内は6年の代表キャリアを持ち、誰もが認める東大の理論派ディフェンダーであり、種田もまた日本選手の中で長身でヘディングが強く、この役柄に見合う選手。堀江さんは自らは果敢なタックルで知られていたが、早大のチーム内では常に戦術論の中心であった、卒業当時の学業成績が「全優」という早大サッカー部始まって以来の成績だった堀江さんは、大会に出発する前にJFA(当時・大日本蹴球協会)の機関誌編集委員にも推され、大会のリポートの書き手となることも期待されていたくらいだから、すでにそのサッカーについての知識で先輩たちから一目置かれていた。


戦術変更を理解したFBたち

 「ベルリンに到着後、初めてチームとして3FB制を採用しながら成功を収め、2FBのままで仕上げた場合よりもチームカは強化された」と竹腰重丸コーチは述べ、「短時日にこの大転回をマスターし得たのは。“考える蹴球"になれた賜物で、その体制が直接大きな影響となる3人、竹内、種田、堀江3選手の理解力が豊富たったところが大きい」と3選手の理解力の高さを賞賛している。
 対スウェーデン戦の詳細についてはこれまで何度も書き、話しもした。多くの先人の「まさに全力を出し切った戦い」については、読み返すたび、語るたびに感慨を新たにするのだが、その事前の準備として急なシステム変更を――それも現在とは違って、さまざまなフォーメーションについての情報が少なかった当時に敢行して成功したことも、記憶されるべきだろう。
 堀江さんは後に記者となり、早大の教授となり、サッカー部長として多くの後輩も育てたが、その視野の広い先輩の影響を受けた一人に、元日本代表監督の岡田武史もいる。2010年ワールドカップ直前の岡田監督の戦術変更の成功は、はるか昔の堀江さんたちの守備体制変更のDNAが働いているのかもしれない。


(月刊グラン2012年5月号 No.218)

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