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学生サッカーと選手を愛し続け 写真を撮り、選手に送り続けた大学教授 フィリップ・カール・ペーダ

日本でサッカーのとりこに


 ひたすら学生サッカーを愛し、プレーの写真を撮り、選手たちに送り続けたアメリカ人大学教授がいた。フィリップ・カール・ペーダさん(Philip Karl Pehda/1921〜94年)は異郷の日本でサッカーの魅力に取りつかれ、学生プレーヤーを愛し続け、自らも愛され続けて、今も多くの人の心に残る73年の人生だった。イビチャ・オシムを日本に招いた祖母井秀隆さん(現・京都サンガGM)が大阪体育大学の学生時代、コーチ時代に写真をもらって励まされた一人――といえば、ペーダさんの日本サッカーへの影響力について、あらためて知ることになる。
 実は、ペーダさんが関西学生サッカーの観戦にグラウンドに来られるようになったころ、私もその姿を見かけたことがあるが、とうとう一度もインタビューの機会がないままとなった。それが長い間、しこりとなっていたが、幸いにも彼と親しかった神戸大学の元監督、青山隆さんや、関西学生サッカー連盟事務局の森岡久美子さんたちからの資料提供もあって、ようやく筆をとることができた。

 ペーダさんが来日したのは1945年9月というから、太平洋戦争終結の翌月である。略歴にはアメリカ陸軍航空部隊にいたとある。
 初来日の後、いったんボストンに戻り、大学を卒業してからフルブライト奨学金で再来日して、1951年の大阪教育大学に始まる教壇生活に入る。神戸外国語大学を経て、1961年から神戸女学院大学の教授となる。40年の教職キャリアの中で女学院が最も長く、この後、神戸にある流通科学大学、関西学院大学の講師を務めた。女学院時代に大阪大学の講師を兼任し、1977年6月、女子学生のジーンズ姿での受講を禁止して、「ジーパン論争」で有名になった。
 普通に考えればアメリカ人だから、スポーツは野球やアメフトになるはず。まして、生地ボストンはレッドソックス球団の本拠地――しかし、ペーダさんはアメリカ生まれのこれらのスポーツではなく、日本で初めて見たフットボール、つまりサッカーのとりこになる。


「カレッジ精神」と「大和魂」

 ペーダさんがグラウンドに現れるようになったのはいつごろか――この点は古い関西学生リーグの先輩たちに聞いてもはっきりしない。1960年代の中ごろには――ということだろう。サッカーの魅力について、こう語っている。
 「私は詩と演劇の教師という職業を天職としています。ですから、当然のごとく、たったひとつの詩的なスポーツであり、また、最もドラマチックなスポーツであるサッカーに魅せられました。むかし、むかし、私がまだ若かったころ、故郷のボストンではサッカーをしたり、見たりする機会はまったくありませんでした。私が真の世界的なスポーツであるサッカーを知ったのは、実は日本にやって来てからなのでした。
 高校サッカーや社会人サッカーももちろん詩的でドラマチックなのですが、大学サッカーは『カレッジ精神』にのっとっているため、エキサイティングなのです。
 このカレッジ精神は、アメリカ人が『オールド・カレッジ・トライ』と呼んでいるものを見せてくれます。『オールド・カレッジ・トライ』とは、高校生が不可能だと思い、社会人がつまらないと思っていることにトライするということです。日本人のいわゆるYAMATO DAMASHII(大和魂)にあたるかもしれません。
 幾年間にもわたって多くの幸せな時を過ごさせてくれたお礼のかわりに、私の撮った写真を贈らせてください。関西学生リーグは私の生活の一部になってしまっているのです。ですから、私は一生、諸君の見せてくれる詩とドラマを追求し続け、また、諸君のために詩とドラマをカメラに収め続けてゆくでしょう。おおきに。みんなのどらサッカーおやじ P・K・ペーダ」(寄稿した関西学連会報より)
 学校の授業ではずいぶん厳しかったらしい。西宮に住み、独身で、教団とサッカー場中心の生活は病のために中断しなければならなくなり、妹さんの住むボストンへ帰ることになった。その帰国の日、祖母井さんが関西国際空港に見送りに行くと、彼は現れなかった。自宅を訪れると、床を埋め尽くす写真の中で静かに事切れていた。
 サッカーに魅せられ、日本のサッカー、学生サッカーを愛した先生は、今の隆盛を、天上からどのように見ておられるだろうか――。


(月刊グラン2012年6月号 No.219)

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