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第2列からの軽快な飛び出しで スウェーデンを切り裂いたベルリン五輪代表 加茂 健(上)

昨年8月14日の放送で

 昨年8月14日のNHKテレビで1936年のベルリン・オリンピックの特別番組が放送され、大きな反響を呼んだ。15分ばかりの短いものだったが、日本サッカーが初めてオリンピックに出場して、優勝候補のスウェーデンを破り、「ベルリンの奇跡」と世界を驚かせた、この3-2の逆転勝ちの決勝ゴールを決めた松永行選手が太平洋戦争で戦死したことをテーマにし、松永さんの選手時代、軍隊時代のエピソードを紹介した。
 番組の案内役として、今の日本代表「SAMURAI BLUE」のキャプテン、長谷部誠が出演して、彼の誠実な人柄が画面にも現れたことが、多くの共感を得る一つともなっていた。“終戦”の8月15日前後に戦争を振り返る番組の多いなか、日本サッカーの歴史上、初めて世界の舞台で輝いた試合とその殊勲者の一人が戦場で若くして生命を失ったというストーリーが、隆盛日本サッカーがワールドカップでも注目される平和な平成の世の人たちの心を打ったに違いない。この番組の制作に多少かかわった者としては、制作を担当されたプロデューサーはじめ、編成の皆さんの努力に感謝のほかはない。
 対スウェーデン戦で活躍した日本代表のうち、松永さんと同様に右近徳太郎さんが南太平洋で戦病死、キャプテンの竹内悌三さんがシベリア抑留中に死亡と太平洋戦争の犠牲になっている。右近さんについては月刊グラン2001年2月号、竹内さんは08年10、11月号のこの連載で紹介している。また、この代表で試合出場はなかったが、FWの高橋豊二さん(高橋是清の孫)も東大を卒業後に海軍のパイロットとなり、演習中の事故のために亡くなっている。


スウェーデンでの敗戦の伝承

 このベルリンの番組の反響は、私の方にもいろいろ寄せられたが、そのなかに「サッカーが好きだが、ベルリンのことは知らなかったという人たちも少なくないのに驚いた。そういえば、ベルリンどころでなく、1968年のメキシコ・オリンピックの銅メダルのことも知らない人が多いと聞かされた。私たち古い者の努力不足ということになるのだろうか……。

 今から20年前、EURO92(92年UEFA欧州選手権)の取材のため、スウェーデンを訪れたとき、36年のベルリン・オリンピックのことを周囲の人に尋ねたら、多くの市民が知っていた。若い人も「父から聞かされた」「小父さんの話では……」と伝承されていた。
 ヨーロッパサッカー連盟のヨハンソン会長(当時)に、「36年のことを調べたい」と言ったら、スウェーデン人のヨハンソン会長は「あのときは大変だったよ」と手で顔を覆ってみせた。飛行機の中で隣席だった若者は「父の話では、スウェーデンのラジオ放送のアナウンサーは試合実況で『そこにもヤパーナ(日本人)、ここにもヤパーナがいる』とヤパーナを連呼した(日本の動きの量が多いことを示している)ため、市民は彼に『ヤパーナ』とあだ名をつけた」という話を教えてくれた。


香川に重なる加茂の飛び出し

 ロンドン・オリンピックにU-23日本代表が出場することで、夏の楽しみが増えた今、76年前のベルリンを少し蒸し返してみたい。すでに月刊グランの2012年3、4、5月号ではDFの堀江忠男さんを紹介した。今回は加茂健さん(1915〜2004年)――弟の加茂正五さん(1915〜77年)とともに、当時のドイツメディアから「カモ・カモ・フリューゲルス」(カモの翼)と称賛された日本の左サイドの攻撃を担い、その独特の飛び出しの速さで相手の守備を切りひらき、ゴールに迫り、チャンスを生んだプレーヤー。現代のサッカーでは第2列の選手の飛び出しや追い越しがチャンスメークの一つの条件のようになっているが、加茂健さんは、このプレーで大戦前の早稲田大の黄金期をつくり、ベルリンでもその特色を発揮した。
 大戦後間もないころは、東西対抗や早稲田WMW(早大ア式蹴球部OBクラブ)でも試合し、私自身も朝日招待のWMW対神戸経済大(現・神戸大)の試合で対戦したこともあり、そのときにプレーの一端を見ることができた。
 東洋の無名の国、日本が、ヨーロッパで知られた強豪スウェーデンを破って、“奇跡”といわれたこの試合は、相手方に気の緩みがあったにせよ、0-2から3-2への逆転には、それだけの攻撃力がなくてはならない。今、ヨーロッパで日本の攻撃プレーヤーの評価が高まっているとき、70年前の加茂健さんと代表FWを振り返ってみたい。


(月刊グラン2012年7月号 No.220)

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