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ピアノを愛し、エンジニアを志し、早稲田でサッカーに打ち込んだ ベルリンの大逆転劇を担ったレフトインナー 加茂 健(下)

対スペインの金星と“ベルリン”

 ロンドン・オリンピックの対スペイン戦での永井謙佑の働きは感動的だった。天性の速さで、早い時期から日本の攻撃のホープと注目されながら、必ずしもレギュラーではなかったが、ここしばらくのグランパスでのひたむきな攻守への姿勢で、チームに欠かせぬFWとなり、オリンピック本番の初戦での勝利の立役者となった。押し込まれたチームのカウンターでの永井の突進の速さは相手の脅威となり、高い位置での鋭いプレッシングはGKやDFに恐れを抱かせ、たじろがせ、ついには彼へのファウルによってレッドカードの退場者まで出したのだった。もちろん、この勝利はイレブン全員の不屈の頑張りの賜物だが、その先頭に立った永井の奮戦は、長く記憶に残ることになる。

 この、連載の加茂健さん(1915〜2004年)は、今年のロンドン大会の76年前、1936(昭和11)年のベルリン大会で、オリンピック初参加の日本代表が優勝候補のスウェーデンを破って、奇跡の逆転劇を演じたときのヒーローの一人である。
 加茂さんのポジションは、今でいう攻撃的MF、当時のW型FWの左インサイドフォワード、通称、レフトインナー(LI)で、左ウイングの弟、加茂正五さん(故人)とともに、日本の攻撃を担っていた。大逆転は0-2から1-2、2-2と追い上げていくのだが、その2点はいずれも左サイドの攻め込みからのクロスをCFの川本泰三(故人、第1回サッカー殿堂入り)と右インサイドフォワードの右近徳太郎(故人)が決めたもの。
 先号、先々号で、ベルリンの逆転劇を日本では知る人が少なくても、スウェーデンでは今も語り継がれていることなどを記し、加茂さんのプレーとそのプレーを育てた生い立ちを探ろうとした。大戦後にサッカーの指導書を1年先輩の堀江忠男さん(1914〜2003年、ベルリン大会日本代表FB、早大教授、早大蹴球部監督)と共著で出版されたこともあり、比較的資料の少ない加茂さんについては、堀江さんの書き物によることが多いのだが、このほど、この二人の母校である旧制静岡県立浜松一中(現・浜松北高)のサッカー部顧問の杉本幸久先生から『浜松北高校サッカー部創立70周年記念誌』『同80年記念誌』などの提供をいただいて、加茂さんのプレーの成長過程の手がかりを得たのは、誠に幸いだった。この記念誌によると、旧制浜松一中は1984(明治27)年に学校創立、蹴球部(サッカー部)は1925(大正14)年創部となっている。


先輩・堀江忠男とともに

 浜松師範付属小学校のころから、ボールを蹴っていた加茂健さんは、中学校でサッカーに打ち込む。先号での紹介の通り、当時の学校のスポーツ部の中には「非合理的な無理な練習」をするところもあり、浜松一中にも、その気風がないでもなかった。少年・加茂に適合していたかどうか……。1年先輩の堀江さんが5年生のときに、英国のチャールズ・バカン著の『フットボールの手引き』を取り寄せ、辞書を片手に翻訳しつつ、フォーメーションや戦術、技術の練習をしたという理論派なのは幸いだったのだろう。堀江さんの卒業後、加茂キャプテンの下に、浜松一中は初めて静岡県大会で優勝している。
 堀江さんは加茂さんのことをこう語っている。
 「私が早稲田に入ると、翌年、加茂君も入学して、二人で東伏見の球場で一緒に球を蹴ることになった。早稲田へ入ってからの1、2年は加茂君にとって煩悶時代であった。当時の早稲田の練習はガンバリズムの猛烈なもので、彼のようなタイプのプレーヤーは、この困難を乗り切って成長するまでに、つぶれてしまいそうな感じであった。
 さらに理工科へ入った彼は、まさに学校の方も実験などが多く忙しかった。その上、幼少から始めたピアノは当時、レオ・シロタ氏の指導を受けていて、ピアニストとして立ちたい気持ちもあったらしい。フットボーラー、エンジニア、ピアニスト、三つのどれも捨て難く――というのが苦しみだったようだ。
 結局、ピアノは楽しみに引く程度ということにし、蹴球を続けたことは周知の通りだった」
 ベルリンでドイツの専門家を驚かせた、高速で見事にボールを扱える選手となったのは、この早稲田の非合理的な猛練習を予科(高等学院)の時期に乗り越えたからだった。
 ベルリンの模様については、すでにこの連載でも何回か紹介している。加茂さんはベルリンの2年後、本場イングランドから来日したイズリントン・コリンシャンズというアマチュア強チームに4-0で快勝、もう一つの勲章があることをお伝えしたい。


(月刊グラン2012年9月号 No.222)

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