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世界一周の英アマ強豪を破り “東京”返上直前の黄金期を証明した鋭いダッシュ 加茂 健(続)

8ヵ月の船旅81戦58勝16分7敗

 1938年(昭和13年)4月7日、東京は朝から小雨が降っていた。明治神宮外苑競技場(現・国立競技場)の芝生フィールドは良いとはいえなかった、試合にかかわる大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)役員たちにはとても晴れがましい日だった。
 サッカーの母国、イングランドのチームが本国からの長い旅の末、初めて日本を訪れ、日本と英国本国チームの初の対戦が行なわれることになっていた。ロンドンのイズリントン地区に本拠を置く、イズリントン・コリンシャンズ。33年に設立され、200人余りの会員を持つ。コリンシャンズという名の上流階級のスポーツクラブも有名だが、ここは創立者で理事長であるトーマス・スミスの方針で、すべての職業の人を受け入れていて、日曜日にアマチュア同士の試合をするほか、プロとの試合もあるミッドウィークリーグにも加盟していた。
 スミス団長と18人のチームは、37年10月にロンドンを出発し、オランダを振り出しにヨーロッパ各地、エジプト、インド、香港、フィリピン、上海などを経て日本にやってきた。来日前の成績は58勝16分7敗と長い旅のハンディを考えれば驚くべきもので、この後、ハワイ、カリフォルニアを転戦して、38年6月上旬に帰国の予定だった。
 日本のサッカーは、この2年前に初めて参加したベルリン・オリンピックで強豪スウェーデンを3-2で破ってヨーロッパを驚かせるとともに、自分たちが築いたチームプレーと個人技に自信を持った。4年後に予定されていた40年の東京オリンピックに向かって、サッカー界あげての強化に取り組むことになり、38年春にも、代表候補を集めて合宿練習が行なわれていた。
 もっとも、社会情勢はベルリン当時よりも悪くなっていた。この1年前、37年7月7日、日中戦争が始まっていた。北支だけでなく上海でも戦いが始まり、蒋介石政権の中枢、南京を攻略するまでになっていた。


慶大と早大の連合FW

 そうした中で、「進境著しい日本サッカーを見たい」イズリントン側と「本場の強チームを相手に、自分たちのレベルアップを確かめたい」日本側のサッカーへの熱意が、この日の試合となった。
 日本代表は合宿中の候補選手の中から関東の選手をピックアップし、全関東選抜と名乗った。メンバーは下記の通り。
 ベルリン組はHBの種田孝一、金容植、FWの加茂健(兄)、加茂正五(弟)の4人。ほとんどが現役の学生で、関東大学リーグで前年から早大に代わって王座についた慶大からGK津田幸男とFW3人が加わった。
 午後2時キックオフの試合は、日本の攻勢で始まり、前半は相手3FBのオフサイドトラップに引っかかって1ゴールだけだったが、後半には相手の策にも対応して3ゴールを加えた。4-0と大差となったのは、英チームの神戸入港が一日遅れて、試合準備が不十分だったこと、長旅と試合過多で疲れていたことなどコンディション不良もあったが、早・慶連合FWの攻撃が素晴らしかったことが第一に挙げられる。特に加茂兄弟の左サイドはベルリンの経験で、そのペアプレーに磨きがかかり、加茂健の速さと巧みな技術、パスとシュートが申し分なかったといわれている。
 辛口の批評で知られる竹腰重丸コーチのリポートにも、「後半の2点目で、CF二宮の横に出たボールに向かって突進した加茂兄のダッシュの冴えは、鋭い日本選手の中でも特徴的なもので、この程度のダッシュを持てば、好調であるときの外国一流にとっても止め難いと思われる」と激賞している。ベルリンのときは20歳でドイツ人批評家を感嘆させた加茂健だったが、22歳のこのとき、ますますその高速と高速中のボールテクニック、判断とシュートに磨きがかかっていたといわれる。
 この年、1938年7月、日本政府は非常時局のためと称して、“東京オリンピック開催返上”を決めてしまう。この後、日本はしばらくヨーロッパのチームと戦うことはないのだが、38年4月7日の全関東FWの輝きを加茂健のダッシュとともに、私たちは忘れることはできない。


イズリントン戦・全関東選抜メンバー

GK 津田 幸男(慶大)
FB 吉田 義臣(早大)、菊地 宏(東大)
HB 森 孝雄(東大)、種田 孝一(東大)、金 容植(早大)
FW 篠崎 三郎(慶大)、播磨 幸太郎(慶大)、二宮 洋一(慶大)、加茂 健(早大卒)、加茂 正五(早大)


(月刊グラン2012年10月号 No.223)

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