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先人を師と称える日本サッカー殿堂入り 奥寺康彦

日本人初のプロ選手

 9月10日は、日本サッカー協会(JFA)の創立記念日にあたる。1921年(大正10)年のこの日、大日本蹴球協会が初代会長・今村次吉(1881〜1943)の下に発足し、第1回の全国優勝大会(現・天皇杯全日本サッカー選手権大会)の創設を発表した。JFAの歴史の始まりとなるこの記念日の行事として、2005年(平成17年)から毎年開かれているのが、日本サッカー殿堂(Japan Football Hall of Fame)の掲額式典である。日本サッカー発展の功労者のレリーフ(彫像)を日本サッカーミュージアム内の「殿堂」に掲額し、その功績を讃えるために創設されたもの。
 9回目となる今年は、プレーヤーとして奥寺康彦、永井良和の2人、プレー以外の分野で功績のあった金子勝彦(アナウンサー)、奈良原武士(共同通信社記者、故人)の2人が選ばれた。
 年配のサッカーファンには奥寺康彦(52年3月12日生まれ)、永井良和(52年4月16日生まれ)の名は懐かしく、2人が60歳になったことも加えて、この掲額はファンそれぞれに新たな感慨となることだろう。
 奥寺についてはまず「日本人として最初のプロフェッショナル」のタイトルがつく。相模工大付属高校(当時)から70年に古河電工に入り、その年の8月に来日したポルトガルのベンフィカ・リスボン(エウゼビオがいた)との第2戦に日本代表の杉山隆一との交代で出場し、18歳6ヵ月の若さで注目され、以来、代表として活躍する。68年のメキシコ・オリンピックでの銅メダルの獲得の後、ひと握りのトップ級選手の集中強化で獲得した栄光の時代が去り、後続の育成が進まなかったころにオク(奥寺のニックネーム)のように体が強く、足が速く、強くボールを叩けるプレーヤーに多くの期待がかけられた。しかし、その素質を見込んだのは日本の指導者だけではなかった。
 西ドイツ(当時)の小さなクラブ、ボルシア・メンヘングラッドバッハを一流チームに育て、バイエルン・ミュンヘンと対抗する勢力に仕上げたヘネス・ヴァイスヴァイラーが1FCケルンの監督であったとき、奥寺を自らチームに加えた。
 下り坂の日本代表を支える奥寺のような逸材が海外に移籍することについて賛否はあったが、その責を負う当時の古河電工の監督、長沼健(第8代JFA会長)たちの理解もあり、西ドイツに渡った彼は移籍早々にケルンでリーグとカップの二冠の栄誉もつかむ。ヴァイスヴァイラー監督が西ドイツを去った後も、世界のトップリーグの厳しい環境にも耐え、努力を積み、80年にヘルタ・ベルリンへの移籍を経て81年にヴェルダー・ブレーメンに移り、監督オットー・レーハーゲルによって攻撃的サイドバックの役割を得て、チームの重要戦力となり、以後6年間、同チームで活躍した。


本田圭佑につながる系譜

 ブンデスリーガ259試合出場、34得点の記録を持った奥寺を日本が迎え入れるのは86年。日本にもプロフェッショナルを認める制度がつくられてからである。34歳で日本に復帰した彼は、第10回アジア競技大会(ソウル)。ソウル・オリンピック・アジア一次予選などに出場、好成績とはいかなかったが、ドイツでつくりあげた彼のプレーは若い仲間に大きな力となった。
 プレーを辞めた後、92年から4年間、東日本JR古河サッカークラブ(ジェフ市原の前身、現・ジェフ千葉)のゼネラルマネージャー、ジェフ市原の監督などを務め、99年から横浜FCにかかわり、代表取締役、社長を歴任し、現在は会長を務めるとともに、テレビ解説などでもヨーロッパでの檜舞台を経験した強みで多くのファンを楽しませている。
 若いころの奥寺は、釜本邦茂の系譜をつぐ日本でも珍しいタイプの選手としての印象が強かった。ヨーロッパ人に対しても負けない“強い体”と、高い技術を持つこのタイプの選手は決して多くはないが、今、代表で大活躍している本田圭佑を見れば、その重要さを知ることになる。

 永井良和は浦和南高校時代に全国高校選手権大会、国体、高校総体の三冠王であったことで、当時の人気漫画『赤き血のイレブン』のモデルとなったことは有名。彼は奥寺ほど体の強さはなかったが、その俊敏なプレー、ゴールを奪う感覚に独特のものがあった。いずれ機会をみて紹介しておきたい日本サッカーの大切な一人である。
 サッカー放送のオーソリティー、金子勝彦アナウンサー、畏敬の仲間、奈良原武士記者についてもいずれということにし、奥寺康彦の横顔紹介に留めさせていただく。


(月刊グラン2012年11月号 No.224)

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