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1970年〜80年日本サッカーの指導に革命 近江達

セルジオ越後 来日40周年記念パーティー

 「セルジオ越後、来日40周年記念パーティー」が10月29日に東京・新橋の第一ホテル東京で開催された。テレビや新聞での辛口批評で知られるこの人の実績については、月刊グラン2004年9、10月号で紹介しているが、コカ・コーラ社の「さわやかサッカー教室」で日本全国の子供たちに「ボールを足で扱う楽しさ」を通じてサッカーの面白さを浸透させ、今日のサッカー隆盛の布石をうった功績は類を見ないものだ。その彼の40年を振り返り、今後を激励するにぎやかなパーティーを眺めながら私は、もう一人のサッカー指導の改革者、近江達ドクターを思い浮かべていた。

 近江ドクターといえば、年配のサッカー好き、あるいはメキシコ・オリンピック銅メダル獲得当時にサッカーに取り付かれた世代は「枚方フットボールクラブ」「ドリブルの上手な佐々木博和」などの名とともに記憶されているはずだ。
 1964年の東京オリンピックの翌年に神戸サッカー友の会が「少年サッカースクール」をスタートさせてから、少年へのサッカーの取り組みが全国各地に広がった。
 日本代表を指導したドイツ人コーチ、デットマル・クラーマー自身も少年指導の名人であり、また積極的に低年齢層への浸透を提唱し、いわゆる「少年サッカーブーム」期に入る。  近江ドクターは29年、神戸に生まれ、六甲小学校でサッカーを覚え、旧制神戸三中(現・長田高校)、旧制松江高等学校(現・島根大学)、京都大学在学中もサッカーを続けた。53年に京大医学部を卒業して医師となり、卒業後もプレーを続けていたが、69年に枚方フットボールクラブの少年たちを指導するようになる。
 78歳で出版した自著を見ると、学生時代の試合や練習でのプレーの記憶が誠にしっかりしていることに驚くのだが、それは相当に打ち込んだという証拠であるとともに、指導者としての素質も見ることにもなる。
 そうした自分の経験や外国の指導書などのヒントもあって、まず「サッカーは面白いぞ」と子供たちに思ってもらうことが第一と考えた。


子供のサッカーは遊びから

 そのころ、すでにサッカー王国といわれていた静岡県でも少年の試合が盛んになり、厳しい指導、筋力アップのトレーニングなども始まっていた。小学生のころから、コーチがフォーメーションや戦術を教えることもあった。
 しかし、近江ドクターはまず、個人技術高めること、それには遊びから入ることにし、始めからフォーメーションを教えるのではなくダンゴのように一つのボールに群がる初心期から、自然発生的に散開していくのを待った。時間はかかり、コーチにとっては忍耐のいることではあるが、遊びのうちにドリブルやボールのトラッピング、身のこなしを身につけていく子供たちが増え、技術が上がるにつれて、静岡県チームの当時トップであった藤枝はともかく、他のチームには互角あるいは勝てるようになっていった。
 そういう指導を受けて小学校を卒業した少年たちが、中学校のサッカー部に入っても部の気風に合わない者も出てくる。そこでクラブで中学年数、次いで高校の年齢層も受け入れるようになり、近江ドクターの一貫教育の下で、このクラブの少年たちがぐんぐん腕を上げた。
 1973年、神戸FC主催の少年大会に枚方フットボールクラブの中学1年チームが出場、中1の安井眞、小学6年の佐々木博和、小松晃二などの上手なプレーが私の目を引いた。神戸FC技術委員長、大谷四郎(故人、第6回サッカー殿堂入り)は、「枚方の少年はドリブルがうまく、3人はおろか4、5人巧みに抜いていく。こういう個人技を伸ばすことに重点を置いた指導をしているのが近江先生――。ドクターは『ボールを持ちすぎるなとは言いません。むしろ、一人でも多く相手を抜いてみろ』と教えているそうだ。将来の日本サッカーが楽しみだ」とサッカーマガジンに書いた。
 枚方のサッカーは面白い。日本のサッカーに革命が起こるかも――と注目するメディアもあり、私自身は近江ドクターの指導とともに佐々木博和というそのころの日本では考えられないほどボールタッチの感覚に優れた少年に注目した。
 68年のメキシコ・オリンピックで代表は銅メダルを獲得したが、チームワークとストライカー釜本邦茂を高く評価するものはあっても、日本のテクニックは参加チーム中、下の方といわれた。その現状を変えるヒントがここにあるのだろうかと考えた。


(月刊グラン2012年12月号 No.225)

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