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子供の自発で能力を伸ばす――ペレも認めた佐々木少年40年前の少年サッカー指導に革命 近江達(中)

小さなサッカー教室から

 近江達ドクターが少年サッカーの指導を始めたのは1969年。40歳のときだった。大阪と京都の間、淀川の東にある枚方市の香里団地近くの開成小学校の先生からサッカー教室のコーチを頼まれたのがきっかけだった。小学校6年生が20人、5年生と女子が少しいた。校庭を借りて、週3回練習した。2年目には小学校4年生が60人ばかり入ってきた。中学校へ進学した生徒たちが「中学校では1年生はボールを使う練習をさせてもらえないので、部活もするが、開成小学校での練習にも来たい」と言ってきた。
 3年目の71年には中学生20人、小学生124人と人数も増えた。メキシコ・オリンピック(68年)で日本代表が銅メダルを獲得して、サッカー人気が高まったこともあるが、「まず、子供たちにサッカーの面白さを知ってもらう」「ボールを足で扱う楽しさを味わわせる」という近江流に子供たちが共感したのだろう。
 ドクターの人柄と当時としては“変わった”指導の信奉者の一人、中村昭二さんの紹介で神戸FCとの交流が始まった。65年に少年サッカー教室をスタートさせた兵庫サッカー友の会は70年に社団法人神戸FCとなり、まだ少年にまで手の回らない日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)に代わって、西日本の少年フットボーラーの交流の中心になった。
 この香里ヶ丘の小学校のチーム(73年から枚方フットボールクラブとなる)が神戸へやってきたのは72年5月だった。香里の子供たちののびのびとしたプレー、ボール扱いのうまさには神戸FCの指導者も感嘆した。何人かの上手な子供がいた。その目立つ少年たちの中に、ずば抜けてドリブルの巧みな佐々木博和という小学5年生がいた。


子供のサッカーは遊びから

 佐々木博和は小学4年のときから練習にやってきた。体は小さく、学校の体育の時間ではむしろ低いレベルだったらしいが、ボールと遊び始めるとめきめきと上手になってきたという。練習のときだけでなく、道路を歩くにもボールを転がし、ドリブルをした。ついには石段をボールリフティングしながら上がっていくようになり、危ないからと道路でのドリブルは止めるように言ったという。彼がボールを巧みに止め、自分の行きたい方向へボールとともに体を動かしていくドリブルを見たのは、私の新しい驚きだった。
 私たちの育った神戸一中はショートパスでの展開が大正末期以来の伝統的な試合ぶりだが、その歴代の強チームの中にはたいてい、一人か二人、ずば抜けたドリブラーがいた。そういう背景を持っていた私にとっては、ちょうど1967年にフブラジルからやってきた日本人、ネルソン吉村(ヤンマー)が当時の日本サッカーにとっての数少ない楽しみであり、彼がブラジルの草サッカー出身であって、日本育ちでないところが残念だった。佐々木はそのブラジル流日系人の上をゆくものだった。そして、佐々木のその後の成長は、誠に目を見張るものがあった。
 始めから“教え込む”のではなく、自由にやらせ、さりげなくヒントを出し、練習の中で自分のプレーを考えさせるように工夫する――という近江流によって、佐々木や小松晃二たち巧者をはじめ、多くの枚方FCの少年たちの上達は、年を追って高みへ到達した。
 77年にペレが来日したとき、ペレの講習会を兼ねて大阪球場で関西の中学生選抜チームとブラジル人の同世代の少年チームとの試合が行なわれた。面白かったのはブラジルの少年たち(当然、日本の少年より巧妙)が佐々木にボールが渡るとファウルで潰しにきたことだった。彼らは自分たちと同質の相手に気づいて、警戒したのかもしれない。
 試合を見たペレに佐々木の感想を聞いた(通訳してくれたのはセルジオ越後だった)。ペレは佐々木の技術を褒めるよりも「これくらいできるのだから、もっと仲間を使い、パスを出し、サポートするようになってほしい」と言った。ずいぶん厳しい批評だと思ったが、裏を返せば、16歳で代表に入り、17歳でワールドカップでゴールを決めたペレが15歳の佐々木に高い要求を出したのは、佐々木の技術の高さを認めたということだろう。


(月刊グラン2013年1月号 No.226)

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