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昔のメッシ、佐々木博和を育て 自主性とボール感覚の大切さを指導 近江達(下)

トヨタ・クラブW杯でのコリンチャンス

 2012年12月16日のTOYATAプレゼンツFIFAクラブワールドカップジャパン2012の決勝(横浜)で私たちは南米代表のコリンチャンス(ブラジル)が欧州代表のチェルシー(イングランド)を1-0で倒すのを見た。
 面白かったのは、どちらかといえば実務型のコリンチャンスが後半に入ると、“遊び"ともいえる“浮き球"の短いパスを何度も使ったこと。後半24分のゴールも後方からのパスを受けたパウリーニョが右足のかかとでボールを浮かせて、外側の仲間へ小さなロブ(高い球)のパスを送ったところから始まっている。彼はヘディングでのリターンパスをもらって相手のマークをかわし、ペナルティーエリア内をドリブルして、相手の守りを崩した、それから、ダニーロのシュートがあり、相手DFに当たって高く上がったボールをゲレロがヘディングして締めくくったのだった。激しいプレーの中で一種の“遊び"を組み入れるところに、ブラジルサッカーの余裕があり、それがまた相手を困惑させ、攻撃の効果を上げていた。
 12年10月の日本代表強化の欧州ツアーでの対ブラジル戦で、私たちはブラジル代表の正確なパスやシュート、そしてそれらを含めてのボールテクニックの幅の広さ、奥の深さをのぞくことになった、ボールタッチの感覚に優れた彼らは、ボール扱いに習熟しているために、仲間のシュートしやすいボールをパスとして送っていた 彼らの対日本戦の先制ゴールは、パウリーニョのエリア外からのトゥキックだったが、彼にパスをしたオスカルは、パウリーニョが走り込んでシュート体勢に入るときに、ボールがほとんど止まるような“丁寧”なパスを送っていた。


上質ボール感覚の系譜

 こうしたブラジルのトップ級選手の技術の多くは、自分たちが先輩のプレーを見習い、自ら工夫してつくり上げたものだが、今から約40年前の枚方フットボールクラブに現れた佐々木博和も、ボールタッチの能力を足場に、自らの工夫で上達していった。格別に身体能力が高いわけでもないのに、ボールに触れ、ボールをコントロールすることにかけては多くの大人も少年も一目置いた。
 佐々木は後にワールドユースの日本代表となり、プロフェッショナルの指導者になった。そのころのサッカー界の大人たち(私も含めて)が、佐々木の少年期にもう少し資質を伸ばし、さらに高みへ押し上げる能力があればよかったのにと思う。
 今考えれば、90余年に及ぶ日本サッカーの歴史の中で、ベルリン・オリンピック(1936年)の日本代表ストライカーの川本泰三さん(第1回サッカー殿堂入り)以来、ボールタッチの感覚に優れた少年を私は見ていた――ということになる。
 二人の系譜を継ぐプレーヤーとして、後に小野伸二がU-17世界選手権に登場して評価を受け、香川真司の欧州での働きで、今や日本サッカーの技術の高さが知られるようになるのだが、40年前に日本人の子どもが高いボールテクニックを身につけ得ることを示した近江達ドクターは、まさに先駆者といえた。
 佐々木は別格としても、近江ドクターの“自主性を重んじる”“自分で工夫する”サッカー指導によって、枚方FCの多くの少年たちがサッカーに親しみ、上達し、清水や東京ヴェルディといった日本でも優秀な人材が集まるレベルの高いチームに勝つまでになった。その指導法は「日本サッカーにルネサンスを」という言葉とともに、多くのコーチたちに大きな影響を与えた。近江ドクターは88年に少年指導から引退し、クラブの運営は1回生の宮川淑人さんに託したが、やがて高齢者のチームで再びボールを蹴るようになり、そこでまたサッカーの新しい眼を開く。その老齢サッカーの楽しみは『回想録 私のサッカー人生(著・近江達、2007年2月1日発行、A4版101ページ)にも記されている。
 その回想録や『枚方FC30周年記念誌』(01年5月発行、A4版190ページ)などを開けば、若いコーチには珠玉の名言を読むことができるだろう。
 最近の近江ドクターからの便りにこうあった「78歳で45試合、30得点しました」


(月刊グラン2013年2月号 No.227)

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