賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >1930年第9回極東大会のために初の選抜代表チームを編成したJFA

1930年第9回極東大会のために初の選抜代表チームを編成したJFA

 日本女子代表、なでしこジャパンが中国・広州でのアジア大会決勝で、難敵・北朝鮮を1-0で破って優勝した。後半28分に宮間あやの右CKをDF岩清水梓がみごとなヘディングで叩きこんだ。このCKはその前のFKを宮間が蹴ったボールを相手GKが防いで生まれたのだから、宮間の中距離キックの確かさが唯一のゴールを生んだとも言える。体格も良く、スピードもある相手の攻撃をしのいだ日本流の運動量と頑張りには敬服した。
 決勝では得点できなかったが、大野忍たちFWは得点力もあったから、押し込まれることの多い試合でも勝とうとする意欲が強かった。この経験はなでしこの歴史の一つに財産を残すだろう。
 U-21代表が同じアジア大会男子の準決勝でイランを2-1で破って決勝へ進んだ。永井謙佑の左サイド突破からの同点ゴール(水沼宏太が決める)と永井のスクリーニングからのドリブルシュートによる勝ち越しは素晴らしかった。
 相手の突進力に何度かヒヤリとさせられたが、女子と同様に、ゴールを奪える選手がいれば苦しい試合も勝てることを示してくれた。
 南アフリカでのフル代表が運動量を基盤に、しっかり守って勝ったことで、日本の各層のチームがいま上げ潮の気配にある。
 走ることや組織的防御、あるいは「チーム一丸」というチームプレーの基礎に目が向けられ、その成果が表れているのはまことに結構――。同時にこれまでいささかなおざりの感のあったストライカー育成や、決定的チャンスのつくり方などに、注目する指導者が増え、自らの工夫でゴールを奪う技術アップを図るプレーヤーが多くなっているように見えるのは、うれしいことだ。
 上げ潮ムードのときこそ、個人力アップにもしっかり目を向けてほしいもの。

 アジア競技大会の話がいささか長くなった。主題の「日本とサッカー、90年」に戻ることに――。
 アジア大会の前身であった極東大会の第8回上海大会で日本代表がフィリピンを破って(2-1)、国際舞台での初勝利を記録したのが1927年(昭和2年)で、いまから83年前のこと。JFA(日本サッカー協会)の設立から6年後だった。日本代表が1917年の第3回大会(東京)に出場して以来5回の参加(第4回大会は不参加)で、初めての2位だった。
 フィリピンに勝った次の目標は、第9回大会で中華民国(現中国)も倒して3カ国リーグの優勝者となることだった。大会は1930年5月に東京の明治神宮外苑競技場(略称、神宮競技場)で行なわれ、27日の第1戦で日本はフィリピンを7-2で破り、29日の対中華民国は3-3で引き分けた。当時は得失点差による順位ではなく、フィリピンに勝った中華民国と日本がともに1勝1分けで、両者1位となった。試合の模様は後述するが、対フィリピンは試合前に豪雨があり、3時30分キックオフの試合はドロドロのピッチ。始めの10分間に2点を奪われたが、日本の動きとパスは冴えて、前半に逆転し、5-2と差をつけ、後半にも2ゴールを加えて7-2で快勝。
 3カ国リーグの第2戦、中華民国対フィリピン(28日)は5-0で中華民国が勝ち、29日の日・中戦が無敗同士の決勝となり、シーソーゲームの末、3-3で引け分けた。
 中華民国のロングボールとドリブルの攻め、日本のパスをつないでの展開が対照的で、観戦者はサッカーの面白みを味わった。
 何年も勝てなかったフィリピンを前回大会で、初めて、それも2-1というギリギリのスコアで破った日本が、今度は7-2で降した。そして、まったく歯が立たなかった中華民国と引き分けた。これでJFAの体協の中での評判が高まり、オリンピックの参加も考える時期に来た――との声も出るようになった。
 いわば、昭和5年、1930年は日本代表にとって、日本サッカーにとってのエポックメーキングな年。この年はまた第1回ワールドカップがウルグアイで開催されて、FIFA(国際サッカー連盟)と世界のサッカーが、大きなステップを踏み出した記念の年でもあった。
 日本の東アジア第1位の、この快挙には、いくつもの伏線があり、準備があった。まず代表チームの編成――。最初の参加はJFA創設以前で、当時の実力チームと見られていた東京高等師範学校チームが出場し、2回目は予選会を行って、勝ったチームが日本代表となった。強化のために他のチームから補強メンバーを加えることもあった。
 東京での2度目の大会を迎えるにあたってJFAは、関東、関西の大学リーグの選手をピックアップして、代表候補の合宿練習によって選抜チームをつくることを考えた。
 チョー・ディンの指導によって技術レベルが上がり、大学チームの実力アップを見たからだった。
 個人力に優れた中華民国代表に勝つために、日本は組織プレーを高めなければならない。そのためには、まず技術のしっかりした選手たちを揃えなければと、鈴木重義や竹腰重丸は考えたのだった。


(サッカーマガジン 2010年12月14日号)

↑ このページの先頭に戻る