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「極東」で勝ち、オリンピックに向かうため JFAの改革と代表の体力キャンプ

 NHKテレビのスペシャルドラマ「坂の上の雲」の第2部が始まる。司馬遼太郎さん(1923-96年)の同名の原作の素晴らしさと衰えない人気は言うまでもないが、NHKも意欲満々の取り組みだから、さらに多くの人が明治の国難期への思いを深めるだろう。
 明治、大正と言えば、平成も20年を超えた今、ずいぶん遠いように見えるが、昭和の破滅的な大戦争も、その根を探れば明治にまで至るのだから、決して無縁ではない。
 さて、日本とサッカー90年――
 前号で昭和5年(1930年)の第9回極東大会で日本代表がフィリピンに勝ち、中華民国と引き分けて東アジアの3カ国リーグで初めて中国に追いついたところまで紹介した。
 大正生まれの私だが、この頃はまだ小学生にもなっておらず、この「快挙」を知るのは随分後になる。
 そう、34年後の東京オリンピックで日本代表がアルゼンチンを破ってグループリーグ2位となり、ベスト8に進んだとき、私たちはベルリン・オリンピック(1936年)以来の「快挙」と言ったが、玉井操(JFA副会長、第2回殿堂入り)、田辺五兵衛(JFA副会長、第1回殿堂入り)といった長老が、「昭和5年以来の快挙」と喜ぶのを見て、極東大会の意味を知った。
 「東京」のとき、開催国代表チームが国民の前で1勝もできなければサッカー興隆の大打撃になる、と関係者は懸念したが、昭和5年世代も同じだったのか――。
 幸いなことに、この時期の日本サッカーは上向きだった。

 明治19年(1886年)に整備された教育制度の、各年齢層の学校のうち、中等学校(今の高校にあたる)にサッカーが広まり、大正に入って中学校の経験者が上級学校に進んで、ここでもプレーする。既述の名古屋の八高もその一つ。そして大学リーグが始まる。
 今風に言えば、中学生はU-17、インターハイの高校生はU-20かU-21、大学生はその上の年齢層、その大学リーグで東京帝大(東大)が急速に強くなった。東大をはじめとする帝国大学(官制の大学)の予科にあたる高等学校のサッカーが全国大会(インターハイ)の開設によって一気に盛んになり、その優秀選手が東大に集まってきた。
 1924年に始まった関東大学リーグの3年目、1926年に初優勝してから1931年(昭和6年)まで6年連続優勝をし、第9回極東大会のときは4連覇中だった。
 チョー・ディンの直弟子、竹腰重丸がプレーヤーとして抜群で、また指導力も優れていて、各校の実力者、インターハイの花形たちを一つにまとめたことが大きい。
 たとえば昭和4年のFW(当時はDFが2人、HB 3人、FW 5人)を見ると、高山忠雄(神戸一中、八高)、篠島秀雄(東京開成中、東京高校)、手島志郎(広島一中、広島高校)、若林竹雄(神戸一中、松山高校)、春山泰雄(東京高師付中、水戸高校)といった、中学、高校時代から名の知られたプレーヤーが揃っていた。
 いわば単独の大学であっても、一種の日本選抜の様相だった。
 この年からはじまった関東と関西の大学リーグの優勝チーム同士の対戦(東西大学1位対抗戦、または東西大学王座決定戦)でも東大は3-2で関学に勝っている。
 この東大を中心に関東大学リーグは1部から4部(各6校)までの大所帯となっていた。こうした大学の組織拡大や、FIFA(国際サッカー連盟)への加入、オリンピック参加などへの配慮もあって、JFA(今村次吉会長)は組織変更と役員改制をこの年に行った。7人の理事の主力が、これまでの高等師範系の人たちから大学出身者に移り、常務理事に鈴木重義が就任した。
 全国に10支部(北海道、東北、関東、東海、北陸、京阪、兵庫、中四国、九州、朝鮮=当時朝鮮半島は日本の一部)を置き、最もチーム登録数の多い関東97、関西では京阪(大阪、京都)が51、兵庫が27で合わせれば89、全国の登録数は302、今から見れば微々たるものだが、創設後の10年目のJFAにとっては、すごい増加ぶりとされた。
 こうした背景のもとにJFAは第9回極東大会の代表を大学の優秀選手をピックアップして決めることにした。準備委員会はまず19人を選び、第1次合宿を石神井で行った。
 個人力の高い中華民国に対抗するには組織プレー、そのためにはまず体力、走力が重要とされた。のちの語り草となるほどの激しいトレーニングでHBの岸山義夫が過労で戦列を離れてしまう。
 FWで最も若い篠島秀雄も、大学リーグ随一のストライカー手島志郎も、のちに大会そのものより、この合宿の辛さを語っていたほど。
 この体力キャンプともいうべき第1次合宿を経て、竹腰重丸をキャプテン兼コーチとする東大8人、早大3、関学2、慶応1、京大1の選抜チームが5月の本番に向かった。
 「極東」で勝ち、東アジア1位になったことで、JFAは次のステップアップであるオリンピックへの参加を体協やJOCに認めさせようと考えていた。


(サッカーマガジン 2010年12月21日号)

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