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小兵のストライカー、手島をはじめFWは東大の5人が並ぶ

 11月25日に神戸、12月7日に東京での「賀川浩、日本サッカー殿堂入り祝賀会」にたくさんご出席いただき、まことにありがとうございました。
 発起人の一人になっていただいた国吉好弘スーパーバイザーには取材現場でよく顔を合わせていますが、久しぶりに北條聡編集長や、堀内征一、平澤大輔など「元編集長さん」にもお会いできました。

「殿堂入り」をきっかけにして、一度仲間の皆さんとパーティーを開いたら…という声にそそのかされて、年の瀬もせまって多忙な皆さんに声をかけ、86歳になる老人を肴に「ちょっと一杯」の楽しい一夕にしたいという会のプランナーの神輿に乗ったのですが、果たして喜んでいただけたかどうか――。とりあえずご参会へのお礼と、そしてまたお手紙や電報でのお祝いや激励をくださったたくさんの方々に感謝申し上げます。
 さて、日本とサッカー、90年です。
 前述の神戸の会に釜本邦茂さん(1986年メキシコ五輪得点王)の小学校の先生、池田璋也さんが、東京の会には1965年の日本サッカーリーグ創設の推進者の西村章一さんがお見えになりました。お二人とも私と同年輩で、当日の最高年齢者。JFAの90年の歴史とともに人生を歩んできたサッカー人ですが、その西村さん、池田さんや、賀川浩が小学校に入学する前の昭和5年(1930年)の話の続きです。

 この年の5月の第9回極東大会(東京・神宮競技場)の日本代表は、4月の第1次合宿を経て、5月25日の対フィリピン、29日の対中華民国(現中国)に臨んだが、大学別に見ると、東大12、早大3、関学2、慶応1、京大1の合計19人の選抜代表候補で、大会に登録されたのは15人だった。HB(MF)の大町篤(東京)が卒業後の就職先が台湾(当時は日本に属していた)であったため代表を辞退した。近藤台五郎が合宿2日目の健康診断で心臓脚気と診断され、またDFの岸山義夫が結核の発病で合宿を去ったのだった。
 近藤は前回の上海大会の経験者、岸山は「追い込み」の上手なクレバーなDFとして知られていた、大事な戦力だった。日頃の学業と練習、試合への打ち込みでの無理が、あるいはこういう時期に表れたのかもしれないが、一方では若林竹雄(東大)がこの合宿期間中に胸の腫れものの手術に踏み切り、本番までに回復できそう――という朗報もあった。
 対フィリピンの日本は、FWが左から春山泰雄、若林竹雄、手島志郎、篠島秀雄で、昭和4年の東大FW(前号で紹介)と同じだった。前号では、現代流に右サイドの高山、篠島…としたのに、今回、左から書いたのは、この頃のメンバー表は、FWの左サイドから書き始めるのが慣例となっていたから。ついでながらこの大会で選手の背番号をつけることにしていて、メンバー表にしたがい、背番号1はGKではなく左ウィングで、GKは11番をつけていた(※日本サッカーアーカイブhttp://archive.footballjapan.jp/の写真をご参考に)。
 HBは本田長泰(早大。東京師範中、早高)、竹腰重丸(東大卒。大連中、山口高)、野沢正雄(東大。広島高師中、広島高)、FBは竹内悌三(東大。東京府立五中、浦和高)と後藤勒雄(関西学院大。関学高)、GKは斉藤才三(関西学院大。桃山中学)となっている。
 FWの5人を前年の関東大学リーグ優勝の東大そのままにしたのは不思議ではない。左ウィング春山は高師附中のころにチョー・ディンからも、「春山はドリブルがうまい」と言われ、若林も神戸一中時代から天才的ドリブルと右のくせ球のシュートで知られていた。手島は広島一中、広島高ですでに有名だった小柄なゴールゲッター。サッカー一筋に打ち込む日常生活で、さまざまな奇行、珍談を残した伝説の主。
 篠島はチーム最年少の1910年生まれ。小学校5年生で旧制中学へ、その4年で高等学校へという進学スピードの早さは、手島の年期をかけた学生生活とは対称的だった。当時インナーと呼ばれた中盤のポジションだが、高校の時から得点能力を評価されていた。右ウィングの高山は既述のとおり、神戸一中で私より20年上の先輩。同じ東大学生でも篠島とは6歳の開きがあった。
 HBの本田は160センチそこそこの身長で、GKをはじめ、どのポジションでもプレーし、戦前の早大では後輩から「神様」と言われた万能型。野澤は手島とともに広島高のインターハイ優勝メンバー、「当代随一」と言われたHBだった。
 岸山が戦列を離れたFB(DF)には竹内が起用された。東大のCHとして沈着なプレーで竹腰の信頼も厚かった。もう一人はベルギー人を父に持つ後藤。「ゴットン」の愛称で関西の人気選手。長い脚を使ってのロングシュートとパスが売りだった。GKの斉藤は後藤たちと関学を東大と並ぶ強チームに押し上げた一人。ロングパスを好むこのチームから力強さを誇るFWでなく、GKとDFが入ったことになる。
 当時の優勝メンバー、多士済済というべき選手たちのフィジカルを高めた鈴木、竹腰の狙いが当たったのかどうか――。


(サッカーマガジン 2010年12月28日号)

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