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「快走、好走、好連絡」でフィリピンを大破 初のハットトリックも

 Jリーグ最終節の結果に驚き、FIFA理事会での2018年、2022年のワールドカップ開催地決定に仰天した。
 第7代ジョアン・アベランジェ会長からいまのヨゼフ・ブラッター会長に引き継がれたFIFAの考え方からゆけば、新しい地域が選ばれるのは不思議ではないのだろうが、それにしてもカタールとは――。
 同じ驚きでも関西人にはヴィッセル神戸の逆転残留はうれしいことだった。
 和田昌裕監督をはじめ、コーチ陣、選手の皆さん、ご苦労さま。今度の頑張りで勢いが出ているはずだから、これをステップに、上位を争うチームへの蓄積を始めてほしいもの。
 さて、「日本とサッカー、90年」は、1930年の第9回極東大会、5月25日の第1戦、対フィリピン戦(東京・神宮競技場)です。
 3年前の上海大会で、日本は初めてフィリピンを2-1で破ったことはすでにお伝えした。今の私たちの常識ではフィリピンはアジアでサッカーの盛んではない地域となっているが、16世紀からのスペイン統治が長かったことから、その交流もあって、アメリカ統治となった20世紀の初め頃までは、日本よりもサッカー先進国だった。この極東大会でも、フィリピンはプロ選手が入っていると中華民国が大会ごとに抗議していた記録もある。
 第1回アジアユース大会(1959年)で見たフィリピンの「上手」なキャプテンに尋ねると、彼はスペインで中学生まで暮らし、もちろんサッカーを懸命にしていたとのことだった。
 前大会で勝った経験から、今度も勝てると考え、結果は7-2のスコアとなった。
 楽々というわけではなく、日本が早いうちにチャンスをものにできないでいると、相手は6分と8分にゴールした。2点ともCFのパチェコが決めた。
 雨のあとの滑りやすいピッチにどちらも悩んだが、日本の動きが速くなり、若林竹雄が1ゴールを返した。右の高山忠雄から中央の竹腰重丸へ、そこから本田長泰―若林とつないだパスワークからだった。その2分後に再び若林のゴール。高山が右タッチ沿いにドリブルして相手のHBをかわし、深いところから中へ送って若林が走りこんでシュートを決めた。
 当時の朝日新聞の記者・山田午郎さん(1894-1958年、第1回殿堂入り)は調子の出てきた日本のパス攻撃のうまさを「快走、好走、好連絡に、相手は全く手の下しようがなく」と書いている。
 16分にも手島志郎―若林から、若林のシュート。GKサントスがはじくのを手島、篠島秀雄の2人が飛び込んでゆき、この勢いでDFがミスキックしてオウンゴール。
 3-2のあとの4点目も若林。22分にHBの野澤正雄が相手ボールを奪って長いボールを送り、これを受けて15メートルから決めた。若林は、国際試合での日本選手初のハットトリックとなる。フィリピンも攻めに出るが、後藤勒雄と竹内悌三の両DFが上手く防ぎ、5点目はCF手島。竹腰―若林とつないで、若林のクロスを手島がクリーンシュートした。
 協会の公報に書かれたものや、当時の朝日スポーツ(週刊)などを参考に、試合経過を辿っているのだが、山田午郎さんは自分が東京蹴球団のキャプテンとして第1回全国優勝大会(現天皇杯)に優勝していた選手で、技術指導でも有名な人。描写がち密でその中に「手島がFB(DFのこと)の間をくぐり抜けるように…」という表現もある。
 小兵のCF手島のプレーを言いえて妙というべきだが、手島さんには、この人の「小さなステップ…」の踏み方を聞いたこともあり、大柄な相手をくぐり抜けるように走る「すり抜け」の達人だった。
 5-2で後半に入ったが、フィリピンの戦う意欲は衰えなかった。
 彼らにも日本と同じくらいのチャンスがあって、こちらはゴールし、彼らは点にならなかったのだ。
 日本は51分に若林が自身の4点目(チームの6点目)を決めて、ほぼ試合を決定づけ、その若林が14分に市橋時蔵に交代すると、タイムアップ4分前に市橋が7点目を加えた。この市橋は神戸一中28回生(昭和2年卒)で若林より2年下、慶応から唯一選ばれていた。この試合では、終盤、79分に本田に代えて井出多米男(早大)を送り込み、DFとし、HBに後藤を上げている。
 ついでながら、この頃は試合中の交代はルールにないはずなのだが、この大会では2名を認めていたという。
 フィリピン側は、雨で滑るピッチが自分たちのショートパスの効果を殺したと言っているが、日本側も同じショートパスながら勢いがあったのだろう。手島、篠島というゴールゲッターよりも、若林が稼いだのは、篠島さん自身の回顧によると、自身は腰を痛めて完調でなかったこと、若林が当たっていると見て、ボールをそちらへ回したとある。個人力のある選手を集め、体力をつけ、組織プレーで勝とうという考えは対フィリピンで成功した。次は目標の中華民国である。


(サッカーマガジン 2011年1月4日号)

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