賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >死力を尽くして東アジア1位獲得 昭和5年代表に悲運のロス五輪

死力を尽くして東アジア1位獲得 昭和5年代表に悲運のロス五輪

 試合すんで 立ち上がれぬほどに 力尽き
 
 烏球亭(うきゅうてい)のペンネームで、サッカーの軽妙な随筆を数多く残した田辺五兵衛さん(1908-1972年、JFA副会長、第1回殿堂入り)は、またサッカー川柳を多く詠んでいる。
 冒頭に紹介した句は、第9回極東大会の日本・中華民国(現中国)の3-3の後、田辺さんが竹腰重丸選手を背負って、宿舎まで帰ったときのもの。
 試合がすむと、ノコさん(竹腰)はまったく動けず、神宮競技場(現・国立競技場)からすぐ近くの宿舎・日本青年館まで歩くこともできなかった。体の大きい田辺さんが背負って帰ってきたのだが、「途中で、担ぎ直そうとしたら、ノコさんがずるずると落ちてしまった。私の体をつかむこともできないほど、まったく力を使い果たしていた」と、田辺さんから何度も聞いた。
 竹腰選手のポジションはCH(センターハーフ)で、当時は2FB時代、いわゆるロービング(移動する)・センターハーフで、最も運動量の多いポジションで、攻守の要でもあった。
 小学校時代には剣道をはじめ、大連中学でサッカーに夢中になり、帰国して山口高等学校のときに、チョー・ディンに出会い、その巡回指導にも付き合った。
 最初の国際舞台が第7回極東大会(マニラ)で、日本代表となった大阪サッカークラブの補強選手さったから、第8回上海大会と3大会連続出場となる。24歳ながら、技術の確かさと体の強さ、確かな戦術眼、そして、だれにも負けないサッカーへの情熱で、仲間からも尊敬されていた。
 強い責任感もあって、完全に体力を使い果たしたのだろうと、盟友・田辺さんは言うのだが……。
 ついでながら、この大会でのノコさんのエピソードをもう一つ「川柳」であげるとすれば、
「抜き放つ短刀に ゴットン 寝もやらず」烏球亭
 合宿所での夜、竹腰キャプテンは自分の気を静め、精神統一するために、母親の遺品の短刀を抜いては見つめていた。武士の家に生まれ育ったこの人独特のやり方だが、同宿の後藤靭雄、愛称「ゴットン」は、それが気になってなかなか寝付かれなかったという。
 「秋霜烈日」と言われた若い頃のノコさんらしい話――。のちには酒好きで知られる人だが、この頃はアルコールも煙草も一切なし、ストイックでひたすらサッカーに突き込んでいた。
 こうして竹腰キャプテンの厳しさを、鈴木重義監督の闊達な人柄がカバーしたことで、個性的なプレーヤーの多いこのチームをまとめたのだろう。

 1921年のJFA創設から10年にもならぬうちに、当時の東アジアでも最もレベルの高い中華民国代表に追いつく日本代表をつくったのは、@チョー・ディンというサッカー知識の豊かなビルマ人に出会ったこと、AインターハイというU-19あるいは、U-20の年齢層のチームで自らを鍛えた若者が東大に集まったこと、B竹腰というリーダーによって、これまでにない組織力あるチームをつくったこと、などによるだろう。
 関東大学で6年連続優勝したこの大学のクラブは、いわば当時の日本のスターチームで、東大と戦うために各大学がそれぞれに努力し、工夫した。そうした他の大学からも加わったから、当時の最も技術の高い選手のチームとなり、さらにハードトレーニングによって体力をつけたことも大きい。
 竹腰キャプテンの大会後の朝日スポーツへの寄稿を見ると、自分たちの手法が、まずまず効果があったと言い、今度はさらなる体力アップのための補強運動の勉強が必要と述べている。
 この1930年大会の初の選抜による日本代表は、高山忠雄の26歳から、最も若い篠島秀雄の20歳まで、ほとんどが大学生ではあっても、年齢に幅があり、また国際大会出場経験者も多くいて、当時としてはまず理想に近いプレーヤー集団のようだった。
 中華民国を倒すことで、次の世界の舞台、1932年ロサンゼルス・オリンピックへ行こう――というJFAや代表選手すべての願いは、ロサンゼルス大会で、サッカーが競技種目から外れることで、泡のように消えてしまう。
 小柄な手島、篠島のペアがペナルティーエリアの中で、大型のヨーロッパDFを相手にしておれば…などと、今の私は勝手な妄想をするけれど、目標を失った選手たちにはつらいことだった。
 ノコさんはこの後、選手としてでなく、指導者として次の世代に望みを託すことになる。


(サッカーマガジン 2011年1月18日号)

↑ このページの先頭に戻る