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極東1位を足場に充実をはかるJFA

 元日決戦を制して天皇杯を獲得した鹿島アントラーズの、クラブの持つ底力に改めて感嘆した。この大会で大迫勇也の進歩を見たのもうれしかった。これでアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)に、Jのチャンピオン名古屋グランパスと、実績あるガンバ大阪と鹿島、それに初体験のセレッソ大阪の4チームが出場し、アジアのクラブタイトルへの興味が一層強まってきた。
 そのアジアの舞台での、もう一つのタイトル、ナショナルチームが争うアジアカップが1月7日からカタールで始まる。海外組も招集しての日本代表のタイトル奪還が注目されるが、私にはテレビ放映のおかげで、一人ひとりのプレーを見られるのが楽しい。
 ドルトムントへ移った香川真司はその活躍ぶりから、テレビのニュースショーなどでも、プレーぶりを解説付きで紹介されている。神戸の少年チームから仙台へ移って自分を磨いていた彼をセレッソに移したのも、神戸FC出身の小菊昭雄コーチであったという関係もあり、私の周囲のサッカー好きにとっては、とても気になるプレーヤーでもある。
 「日本とサッカー、90年」という連載を始めさせてもらい、ちょうど日本サッカー協会(JFA)の創立(1921年)から10年目で、第9回極東大会(1930年、東京)で初めて中華民国(現・中国)に追いついたあたりを執筆中の私には、日本とアジアのサッカーの関係の今昔を、同時に眺めるのが新しい年の1月ということになる。
 さて、その80年前の話…

 日本サッカー史を「駆け足」で辿れば1930年の次の栄光は36年のベルリン・オリンピックでの逆転劇となるのだが、今回はもう少しじっくり見てゆきたい。
 1931年10月23日、大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)は機関紙「蹴球=サッカー」第1号を発行した。
 JFA創立のときの規約の第4条に「本会の行う事業は左の如し」として、その4事業の一つに「蹴球に関する年報の発行」となっていたのを、この年から「機関誌発行は年3回とする」と決めた。(7月22日理事会)
 地方の組織も、それまでの関東、東海両支部をそれぞれ関東蹴球協会、東海蹴球協会と改称し、京阪、兵庫の二つの支部を合わせて関西蹴球協会と改称している。すべて増大し始めた加盟団体の要望に対応しつつ、JFAの主催する全国大会や東西対抗などの行事(試合)をしっかり運営して全国のレベルアップをはかるためだったが、機関誌の発行回数を増やすことは、情報の伝達や技術解説などにとても重要なことだった。
 JFAが目標とした1932年ロサンゼルス・オリンピックの、サッカーは競技種目から除外されていた。ブロークンタイム・ペイメント(休業補償)という試合で仕事を休んだ分の収入をサッカー(クラブや協会)で補償するという制度のためだった。私から見れば、32年オリンピックにサッカーがなかったことは、戦前の日本蹴球の発展のためにとても残念なことだったが…。
 それでも、東京での当時のビッグな国際大会で東アジアのトップに立ったことで、サッカーの人気は高まり、学校への浸透も広まっていった。
 関東大学リーグでは東大の優勝がこの年31年まで続く(6連覇)が、早大や慶応も力をつけ始めていた。
 インターハイを経て東大や京大へ進む――というコースが、高等学校と大学からそれぞれ3年ずつの区切りであるのとは違って、早稲田や慶応は予科、本科、あるいは高等学院、大学といった5、6年続く仕組みになっていたから、優れたプレーヤーは若いうちから年長者とともに練習、試合をするという利点があった。
 昭和7年(1932年)に小兵の「偉大」なストライカー手島志郎が卒業するとともに、東大の黄金時代は去った(その後もときに強い年もあったが)。3年間のリーグの15試合で23ゴールした手島より1年早く、優れたFWの篠島秀雄も、若林竹雄も卒業していた。この年の関東大学リーグの優勝は、東大に勝った早大と慶応がリーグで引き分けて、ともに4勝1分けで、優勝決定戦を行い、慶応が5-2で早大を破った。敗れた早大のメンバーには川本泰三、優勝した慶応には右近徳太郎の名があった。
 この二人は、のちに日本代表として活躍するのだが、こうして10代の予科時代から関東大学リーグのトップチームで、4、5歳年長者とともに試合をしていたことに注目しておきたい。
 チョー・ディンの指導を受けて、技術、戦術を高め、独自の練習で個人力と力強さ加えたチームカラーを持つようになった早大と後発の故にドイツ人コーチ、オットー・ネルツの著「フスバル」をテキストとして、組織力を掲げた慶応が、西の関西学院とともにしばらく日本のトップを争うことになる。
 そうした若い選手の台頭を見ながらJFAは1934年の第10回極東大会(マニラ)を目指す。今度こそ中華民国に勝って東アジアのナンバーワンになろうというのだった。そしてその向こうにベルリンがあった。


(サッカーマガジン 2011年1月25日号)

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