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政治問題が代表の一体化に影を落とし、上昇日本に「蘭印」の強パンチ

 日本の北海道より少し大きい国土に300万人少々が住み、登録サッカープレーヤー10万そこそこ、目立った国際舞台での実績を持たないヨルダンから見れば、その4倍の国土に一億一千万人が住む、経済大国・日本は、ワールドカップ開催の経験を持ち、登録プレーヤー100万人近いサッカー大国――。
 そのヨルダン代表にアジアカップ第1戦で日本代表が、タイムアップ直前までリードされ、ようやく引き分けるのだから、サッカーは面白い。
 南アフリカでのワールドカップで16強に入り、若手層のレベルアップもあって、「上げ潮」ムードの日本サッカーにちょっと水をさされた感じがしないでもないが、そこがまた世界のサッカーの広さ、高さというべきだろう。
 順風のときに、こうした異変はありがちなもの。いま連載の「日本とサッカー、90年」の第10回極東大会も「上昇・日本」が足をすくわれた大会だった。
 今度のカタールでは、日本サッカーの厚み、あるいは底力を見せることになるだろうが、1934年、いまから77年前のマニラではどうだったのか――。
 34年4月29日、極東大会に参加する日本選手団を乗せた日本郵船の平洋丸が、フィリピンのマニラに向け出帆した。航空機の未発達だった頃の海外渡航は船の旅、5月7日の到着まで8日間の行程で、門司(4月30日)と香港(5月4日)に寄港。サッカーの日本代表は、門司で学校のグラウンドを借りて練習し、香港で地元のチームとの練習試合を行った。船上でも体操やランニング、ネットへ向けてのキックなどの練習をした。
「網目から もれたボールは 太平洋」 烏球亭
 コーチ兼マネージャーであった田辺五兵衛さん(故人、第1回殿堂入り)は船上練習でボールが海へ落ちた情景を川柳に詠んでいる。
 代表選手は、
▽GK 熊井俊一(早大)、金澤宏(京大)
▽FB 後藤靭雄(関学卒)、安部輝雄(関学卒)、堀江忠男(早大)、鈴木保男(早大)
▽HB 立原元夫(早大)、川西隆太郎(関学)、三崎四郎(関学)、右近徳太郎(慶大)、松丸貞一(慶大卒)
▽FW 堺井秀夫(関学卒)、野澤晁(早大)、川本泰三(早大)、名取武(早大卒)、西邑昌一(関学卒)、大谷一二(神戸高商卒)
 17人のうち早大の学生、OBが7人、関西学院大学(関学)の学生、OBが6、慶応大の学生、OBが2、京大が1、神戸高商OBが1で、関東、関西という目で見れば9人と8人のほぼ同数だった。
 JFAは、選手選考のために、例年1回の東西対抗試合を2回にして、1月21日に甲子園、同28日に明治神宮競技場で、それぞれ開催した。第1戦は5-3で関東、第2戦は関西が6-1で勝つという、1勝1敗の結果と、それぞれの個人力を評価しての選考だったはずだが、西軍の主力関学はロングパスによる速攻主義で、東大、早大、慶応によって培われたパスをつなぐ関東側の組織的な展開とは違うスタイルだった。
 中華民国に勝つためには、1930年の組織力の上にさらに個人力のアップが必要と考えたのだが、この双方のスタイルや考え方の違いを深めて一つのチームにまとめることが大切だった。
 代表候補24人を集めた3月16日から31日までの第1次合宿、4月5日から出発までの第2次合宿によって代表チームの組織力アップをはかるはずだったが、その成果は十分ではなかった。

 まず第一は、JFAが予定した▽総監督・鈴木重義▽監督・竹腰重丸▽マネージャー・工藤孝一のうち、鈴木総監督が会社の都合上、辞任し、工藤も辞退した。
 その上、選手たちから、もっとも信頼されている「ノコさん」竹腰監督が、満州国の大会参加問題という、日本体協のかかえた政治的な動きにかかわることになって、練習を指導する時間や日数をそがれてしまった。満州国は日本が後押しして中華民国の東北部に建国した国で、ここの体育協会を、極東大会に参加させようという企てを、満州国を認めていない中華民国が受け入れるはずがなく、とても難しい問題。
 日本国内では右翼団体がこの満州の加盟を日本がバックアップすべきと主張し、平洋丸にもデモをするという噂もあったほどだ。
 4年前の東大のような主力となるチームなしで、監督が45日の合宿期間中に14、15日しか選手とともにおれなかった、ということが、のちに反省となって残るのだが…。
 5月12日から始まった大会のサッカー第1戦で、中華民国がフィリピンを2-0と破った。
 翌日大会第2日、日本の相手はオランダ領のジャワ、その頃漢字では「蘭印(らんいん)」と記していた。初参加のこのチームに、日本は1-7という大敗を喫してしまう。
 先進・中華民国に勝つことを目標としていた日本は、そこへ行くまでに強いパンチを受け愕然とした。
 日本の上昇ムードへのアジアからの強い警鐘といえた。


(サッカーマガジン 2011年2月1日号)

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