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77年前のマニラでの警告を受け止め 2年後のベルリンを目指し個人力アップ

 1934年5月13日、日本代表は第10回極東大会(マニラ)サッカー競技の第1戦で「蘭印(らんいん)」と戦って1-7の大差で敗れた。蘭印というのは当時オランダ領であった今のインドネシアのことで、漢字の略称では、オランダ(阿蘭陀)の蘭とインド(印度)の印を組み合わせていた。今のインドネシア共和国はジャワ島、カリマンタン(ボルネオ)島をはじめ、大小1万余の島々を含んでいるが、この頃日本では代表的な島の名であるジャワ(あるいはジャバ)の名を当てはめ、JFAの大会リポートの中にも「ジャバ」がたびたび登場している。
 その蘭印、あるいはジャバは、極東大会にはこのときが初参加だったが、4年後の1938年フランスでの第3回ワールドカップに「オランダ領東インド」の名の代表チームを送り、アジアから最初の参加チームとなっている。そうしたサッカー熱興隆を背景に、この大会にはオランダ人、中国人、ジャワ人、などの優秀な選手をピックアップして、15人の選手と役員2人を送り込んできた。
 4年前に目標の中華民国(現中国)と3-3で引き分け、東アジアのトップに並んだと自負する日本はこの大会では第3戦の対中華民国戦に勝つことを目指して、コンディションもそれに合わせてきたのだが、それよりも前に、未知のジャワの意外な力に驚くことになった。
 JFA機関誌のリポートなどを見ると、日本にもチャンスは再三あった。CF川本泰三のシュートが右ポストに当たり、LW大谷一二のシュートがDFのカバーで防がれた、といった惜しい場面もあった。
 チャンスをつかめず、相手にゴールを奪われると流れが悪くなるのは、今も昔も同じこと。相手はL・ヤーンの長いシュートで16分にリードし、27分にロングボールをCF都下根がヘッドで落とし、ヤーンが決めて2-0とした。後半初めには左CKから都下根が決めて3点目。
 日本は7分に大谷−川本と渡って、川本が決めて3-1とした。ここから追い上げるべきところなのだが、またまたCKからヤーンへのヘディングで4-1と開き、そのあともCF都下根が2得点、ヤーンが1ゴールしてしまった。
 竹腰重丸監督の感想によると蘭印の右インサイドフォワード(攻撃的MF)のヤーンの個人力が一段上で、彼がチャンスをつくり、また自身で4ゴール(都が3得点)を決めているとのこと。いわば特定の選手の力で日本の守りが崩されたことになる。つまりは準備不足、対応力不足ということになるだろう。
 それでも、5月14日の対フィリピンは、前半に1-3とリードされながら、後半に3ゴールを決めて4-3で勝った。
 フィリピンは初戦を中華民国と戦い(0-2)、中1日の休み、日本は連戦。調子の出ないうちに立て続けにゴールを奪われたが、30分に川本のシュートで1点を返し、後半2分に堺井秀夫−川本−大谷とつないで2-3。フィリピンの動きが鈍り、日本はさらにパスをつないで西邑昌一が決めて同点、両チームとも疲れを見せながら22分にカウンターから川本のドリブルの後のパスを野澤晁が決めて1勝をもぎとった。
 
 対中華民国は5月20日に行われた。豪雨のために日程が変更され、日本は中4日の休養(中華は中5日)となる。午後4時50分に始まり、中華民国は6分と11分に左サイドの攻めから2ゴールを決めた。得点者は譚景柏、右のインサイドフォワードだった。日本は右のFW堺井が相手のファウルで左腕を脱臼して川西隆と交代。堺井に代わってRHから右ウイングに回った右近徳太郎が右からクロスを送り、野澤が決めて1-2。1点を奪われて1-3となったが、27分に野澤が川本からのパスを受けて2点目。29分に名取武のシュートで3-3とした。その1分前に中華の李天生がファウルで退場となっていたから、追いついた日本有利と見えたが、31分に李恵堂と堀江忠男が接触したときに、堀江のファウルの判定でPKとなって、李が決めて4-3となった。「PKの判定は理解に苦しむが、これによって審判を云々することは妥当ではなく、天命として甘受しなければならない」と竹腰監督は記している。
 こうして日本は1勝2敗に終わり、中華民国は3戦全勝で優勝した。初戦に日本を破った蘭印は次の日、中華と対戦して自らの疲労と相手のラフプレーに0-2で敗れ、名手ヤーンも負傷し、フィリピン戦には欠場してチームは2-3で敗れた。
 日本は早大の若いストライカー川本泰三が、右足に故障を抱えながら、国際舞台での得点力を見せたほか、選手たちはそれぞれ力を発揮した。中華と蘭印の個人技術の高さを知り、国際舞台の経験の大切さを感じるとともに、組織力に長じていることを確認し、こうした舞台で勝つための一体感や、動きの激しさ、球際の強さの必要性を痛感した。
 竹腰監督や田辺五兵衛マネージャーと選手たちは、詳細なリポートの中で上昇ムードの日本サッカーへのアジアからの警告をしっかり受け止め、次のステップを目指す方策を指向した。その舞台は2年後のベルリン・オリンピックだった。


(サッカーマガジン 2011年2月8日号)

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