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さあベルリンを目指そう 早大に新しいストライカー、川本

 AFCアジアカップ、カタール2011の決勝で李忠成が見せたボレーシュートは、日本人には忘れることのできないシーンとなるだろう。
 大陸大会ファイナルでのビューティフルゴールと言えば、誰もがEURO88でのマルコ・ファンバステン(オランダ)の右足ボレーシュート(2-0ソ連戦の2点目)を推すはずだが、カタールから送信されたこの映像は、世界中に衝撃を与え、共鳴を呼び、アジアのサッカーのレベルを印象付けたことだろう。だからと言って、李忠成がファンバステンと並んだと言うつもりはないが…。
 それでも、北京オリンピックで日本代表入りして、私たちを喜ばせてくれた彼には、このゴールがステップアップへの大きな自信になると期待できるのはとても楽しいことだ。
 今度のアジアカップは、日本代表が南アフリカのワールドカップ16強以来の上げ潮の中での6試合であり、チーム一丸となって戦うことへの確信と、チーム全体と個人的な進歩が見られた。
 その具体的なプレーについては、ときにこのページやあるいは私のウェブサイトで見ていただきたいが、JFA創設(1921年)以来の90年を追うこの連載もまた、ちょうど四分の三世紀前の上げ潮の時期に入っている。筆を進めながら、75年の時に隔たりはあっても、奇妙な符号を感じることになる。
 
 さて、1934年マニラでの第10回極東大会で1勝2敗と振るわなかった日本代表の、次の目標は1936年のベルリン・オリンピックとなる。
 すでにワールドカップは始まっていた。1930年の第1回ウルグアイ大会のあと、34年にはイタリアで第2回大会が行われた。31年10月発行の公報「蹴球第1号」や35年2月発行の「蹴球・昭和10年2月号」で解説を掲載してはいるが、JFAの目指す「世界」は、プロフェッショナルでなく、アマチュアのオリンピックだったのは当然だろう。
 日本サッカーにとって、これまで中華民国やフィリピンといった東アジアでなく、開催地がヨーロッパのドイツであり、初めての欧州遠征――、費用も莫大なものになる。
 昭和10年12月号の「蹴球」でJFAは「日本代表のベルリン派遣費募集」をサッカー人に訴えている。それによると、ベルリン・オリンピックへの参加費用は合計8万4800円が必要で、このうち大日本体育協会(現体協)の調達分が5万4000円で、不足が3万800円――。マニラ大会の時にも募金をして、その余剰金の800円をあてるために、募集金額は3万円となっている。
その頃の物価で言えば、1万円で神戸なら六甲などの高級住宅地に「邸宅」が建てられたのだから、アマチュアの競技団体としては大きな金額である。ちなみに34年のマニラの極東大会は収入が4710円で、内訳が大日本体育協会から1754円、JFAで集めた寄付が2956円。費用は3583円で余剰金が1126(円以下は切り捨て)だった。
 寄付をしたのは各学校の蹴球部や選手個人、大会に参加した選手や役員(たとえば竹腰重丸監督たちも)、個人的に寄付している。
 こうしたJFAあげてのベルリン行きの実現をはかったのは、マニラで成績は上がらなかったけれど、自分たちの考えた日本代表の進む方向については、間違いないと考えたからだった。参加選手たちのマニラでの反省の中に「一体感のあるチームができなかった」ということで「選抜チームの合同練習の短いこと、また国際試合が少ない点について」といった意見も寄せられたが、そうした点を考慮しても、相手より運動量の多い組織サッカーという考えは推し進めていくべき――、と竹腰監督は自信を持っていた。もちろん、誰もが認めたのはシュート力アップではあったが…。
 その頃、関東大学リーグでは東京帝大(現東大)が6年連続優勝の黄金時代が傾き、昭和7年(1932年)から早大がトップに立ち、慶大と優勝を争う形になっていた。
 旧制のインターハイをめざしてみっちり練習した高校生(旧制中学=5年生=を卒業して入学、3年間)が東大に集まったのだが、この頃には予科を持つ早大や慶大といった私立大学に、若いうちから優秀なプレーヤーが、大学リーグで戦うといった利点が芽を吹き始めていた。
 とくに早大は、高等学院(早高)が全国高等学校大会(インターハイ)にも出場できることで、この大会の特徴の激しいプレーの洗礼を受けることもあって、チョー・ディンの指導で始まった、技術と組織重視の上に、力強さ、激しさを加えたチームカラーが生まれていた。
 その早大に、1931年に入学してきたのが、大阪・市岡中学の川本泰三(1914-85年、第1回日本サッカー殿堂入り)。中学時代は無名、ヒョロリとした17歳が1年生のときからリーグに出場して得点を重ね、実績を積んでいた。
 30年代のCF手島志郎(1907-82年、第5回殿堂入り)の鋭さとは違ったドリブラーで、独特の「間(ま)」を持つストライカーが育ち始めていた。


(サッカーマガジン 2011年2月22日号)

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