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選抜よりもナンバーワン早大主力に  攻撃力のある代表を36年ベルリンへ

 長友佑都のインテル・ミラノでのデビュー試合をテレビで見て、興奮されたファンも多かっただろう。FCバルセロナによって日本人の目がスペインに注がれるようになってはいるが、中田英寿以来の長友の活躍で、再びイタリアとセリエAへの関心が高まるのはまことにうれしいこと――。
 欧州での日本人選手の活躍で、遠い国が身近な存在になる――まさにサッカーの功徳と言えるだろう。
 「日本とサッカー、90年」の連載に戻ると、JFA(日本サッカー協会)創立から15年を経て、1936年のベルリン・オリンピックに参加する頃に至っている。
 そのオリンピック代表の選考とどうするか――、JFAは機関誌蹴球第3巻4号(1935年10月号)に選手詮衡(選考)要綱を公告(発表)した。それによると、
「@ これまでの経験や現状から見て、全国的ピックアップチームは不過当である――とし、
(イ)35-36年シーズンで断然強いチームが出現すれば、そのチームを主体とする。
(ロ)そういうチームがなければ、一地方協会管轄区域を中心として選考し、他地域よりも補填することができる。
A選考には全日本選手権大会(現天皇杯)、神宮大会(地方対抗選手権大会)、東京学生リーグ戦、東西学生リーグ代表対抗試合、その他を参考とし、必要と認められる場合には、さらに選考試合を行うこともある」
 となっている。これはこの年の9月15日の代表選考委員会で決めた方針を10月14日のJFA理事会で承認したものだが、これまでの連載で述べたように1934年の極東大会で「全国ピックアップチーム」を派遣して良い結果が出なかった経験によるものと言える。文中の(ロ)「一地方協会」とあるのは関東、関西といった現在の地域協会のこと。したがって、もし早大が一番強くても、それが「断然」でなければ関東協会を中心に選考するということになっていた。
 このことから、関東優先で公平を欠くという声が関西や朝鮮地方(当時、日本の一部)から出たこともあったが…。

 選考委員会は1936年1月19日の会議で25人の第1次候補を決め、最終選考で16人の代表を決定して36年6月号の「蹴球」で公示した。
 ▽FW 加茂健(早大)、右近徳太郎(慶大)、西邑昌一(早大)、高橋豊二(東大)、松永行(文理大=現筑波大)、川本泰三(早大)、加茂正五(早大)
 ▽HB 立原文夫(早大)、笹野積次(早大)、金容植(普成)、種田孝一(東大)
 ▽FB 竹内悌三(東大LB)、鈴木保男(早大)、堀江忠男(早大)
 ▽GK 佐野理平(早大)、不破整(早大)
 16人中、早大が10人(うちGKが2人)。東大がOBをふくめて3人、慶大と文理大と朝鮮地方の普成専門から各一人が選抜された。
早大が主体となったのは東京学生リーグで1933年から3年連続優勝し、東西学生対抗戦でも3年連続勝利していた。早大に対抗する勢力となった慶大は、34年のリーグでは早大と3-3で引き分け、再試合でも7-7という大接戦、ともに4勝1分けで両校1位となったが、次の35年はリーグでは早大に完敗した。
 この年の早大はリーグの5試合が対東京商大(7-1)、立教大(13-1)、東大(4-2)、文理大(5-3)、慶大(8-2)と圧倒的な強さを見せ、関西学生1位の関西学院にも12-2で大勝した。
 鈴木、堀江の両FBと、吉田義臣、立原、笹野のHBはしっかりした守りで、右から平松留雄、西邑、川本、加茂健、加茂正五の5人のFWの得点力は群を抜いていた。
 日本選手権や明治神宮大会には予選で敗れる場合が多く、むしろ慶大のほうが好成績を挙げたが、守備と攻撃のバランスと組織力の点で、早大がトップチームと認められた。
 なかでも高く評価されたのは攻撃の左サイドの加茂兄弟と川本。弟・正五は身体能力に優れ、俊足を生かしたドリブル突破でチャンスをつくり、兄・健は早い飛び出しで、第2列からトップへ駆け抜けて、相手を崩す動きとシュートで知られた。
 CF川本は、少年期はシューターというよりドリブラー。大阪・市岡中の低学年の頃は体が弱く、入部を両親から禁じられていて、ひとりでゴムボールを操っていたという。私より10歳年長のこの人とは、のちに同じチームでプレーもし、サッカー談義を重ねたが、それから推察すれば「ボールタッチのいい」少年――。今の日本で言えば小野伸二、世界で言えばマラドーナやメッシの系譜に入る素材だったろう。
 早大に入って、東伏見のグラウンドで、自分ひとりでボールを転がし、シュートをしているうちに、ゴールを奪う才能が進化して、早大の予科ともいうべき高等学院の1年の時からリーグ戦で点を取り、周囲からも随一のゴールゲッターと見られるようになっていた。


(サッカーマガジン 2011年3月1日号)

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