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東伏見で一人ボールを転がしつつ  猛練習にも耐え、力をつけた川本泰三

 Kai Sawabeの名で、ドイツでフォトグラファーとして知られている沢辺克史さんが、先週ふらりとやってきて、2006年に出版した「サッカー356日 365 Fussball Tage」という立派な写真集をプレゼントしてくれた。昨日メールが来て、一昨日ベルリンに戻ったこと、久しぶりにゆっくり会えてうれしかったこと、時差で寝不足で、戻った次の日には一日寝ていたこと――などが書き込まれていた。
 旅慣れた彼から「時差」うんねんを聞かされると、改めて日本代表・ヨーロッパ組の「しんどさ」を思うことになった。
 日本とサッカー、90年の連載は、75年前にベルリンで開催された第11回オリンピック大会に、日本代表を送り込むところに差し掛かり、そのメンバーの一人、川本泰三(1914-85年)について語り始めた…。
 シュートの名人とまで言われたプレーも素晴らしかったが、サッカーについての自身の取り組み方や考え方が、とてもユニークだった。
 それについて、自身の書き物や私の記事も多いが、多くは戦後のものだから、この号で早大を卒業した1年後、つまりベルリンの翌年、23歳のときにJFA機関誌1937年9月、10月号に寄稿した「蹴球拾年の記」を見ていただきたい。

 『市岡中を卒業して早稲田へ入った。蹴球部から勧誘が来たので待ってましたとこれに応じた。
 当時の早稲田は、井手多米雄主将(1930年日本代表――、われわれ新人にとってはまったく畏敬の的だった)以下、工藤孝一(のちの早大監督)、浅井彬、熊井俊一、宮部一雄、阿部信男たち先輩のもとに、スパルタ式猛練習をぶつけられた。同期にはなかなか秀英が集まっていた。鈴木(高島)保男、堀江忠男、平松留雄、名取武と、のちの第一線級が集まっていたので、練習にも力が入った。
 まず東伏見のグラウンドが気に入った。高田馬場から西北の方、緑のこぼれそうな武蔵野原の真ん中にうっそうと茂った樹木に包まれているグラウンドを持つことができたのは確かに大きな喜びであった。
 当時は親類の家に厄介になっていたので、弁当を持たされて家を出た。その弁当を下げてグラウンドへ直行したのだ。グラウンドの土手に腰をおろし、寝ころんで瞑想にふける。そのうちお腹が空いてくると、アルミニウムの弁当箱を開くのである。ボールに対する愛着とともにそれは懐かしい思い出である。
 蒼空の下で弁当を開く日課を終わると、ユニフォームに着がえてボールを転がし始める。そのうちに皆が集まってきて、早稲田式の猛練習が始まるのだ。そうした1日が1年半ばかり続いた。リーグ戦は幸か不幸か最初からレギュラーポジションを与えられて出場した。今にしてみれば、単に早稲田のユニフォームを着た中学生であったに過ぎない。
 元来、早稲田の練習は激しさをもって成るものであるが、試合前の合宿になるとさらに激しさを強いられた。自分たちは常にオーバーワークで試合に臨まなければならなかった。その気持ちが、自分にとってかなり重圧であった。ただ、この2年間の苦汁があとになってどんなに大きな糧であったか。
 2年目のリーグ戦も終わったこの年、過去6年間日本蹴球界に君臨した東大が凋落の道を辿り、早慶が天下を二分しようとする形成になった。
 自分も「中学生の蹴球」を清算して新しいスタートを切る必要があった。何とかしたいと焦燥が続いたが、結論は「何でもよいからボールを転がせばよいのだ」ということだった。そしてそれに何か工夫しようと、グラウンドの土に、空間に、何ものかを追求しようとする信念はあった。
 慶応は一つのフォーメーションを保って、それにプレーヤーを当てはめてゆくというやり方で二度の早慶戦の末、東大からタイトルを奪い、日本の覇者となった。早稲田はただ「力の蹴球」を求めて猪突した結果、慶応の下に甘んじることになった。
 2年目の最後に東西対抗の東軍に選ばれた。この試合は自分で考えて、やや満足すべきものだった。
 3年目は相変わらずの練習が続いたが、このとき自分は確かに多少なりとも心に余裕があった。宿敵慶応を予想を裏切って押し切り、早稲田は9年ぶりに覇権を獲得した。
 次の年、日本代表として極東大会に出場した。炎天下に中華民国を破り得なかったという思いだけで充分である。
 それから、曲がりなりにも順調なコースを辿った。早稲田も自分もともに(力の蹴球にも種々の変遷があり、自分のプレーにもいくらか心的要素が加えられたと思う)。ただ、昭和9年は慶応と2度戦って2度引き分けた激戦を思い出す。
 そして昨年のオリンピックである。前半0-2、後半3-0のスコアが物語る精魂を尽くした戦いが終わって、ヘルタ球場の夕闇の中に突っ立った気持ちはうれしいでもない、もちろん、悲しいでもない。骨から滲み出るような冷たい汗と立っていられないような疲労感だけだった。』
 次号で、ベルリンでの試合を眺めてみよう。


(サッカーマガジン 2011年3月8日号)

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