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スウェーデン戦に力を使い果たし イタリアの技と力に大敗

 JFA(日本サッカー協会)の震災復興のための慈善試合、日本代表対Jリーグ選抜(3月29日、大阪・長居)の前売り入場券3万8000枚が23日に即日完売したということだ。中には値上がりを見込んで購入した人もあるらしいが、まずは協会、選手、サッカー人のすべての善意が被災地の人たちに届くことを期待したい。
 今年はJFAにとって創立90周年に当たる。その記念行事の一つとして、イングランドFA(フットボール・アソシエーション)から92年前に寄贈され、JFA創立のきっかけとなったシルバーカップ(戦時中に供出してしまった)の復元を企画したところ、それを聞いたFA側から、複製のカップをつくりましょうとの好意の申し出があったと聞いた。
 シルバーカップは当時の駐日英国大使館からの要請にFAが応じたもので、この連載の4、5のところでも触れているが、その大使館の中で最も熱心に日本でのサッカーの興隆を図り、大会開催やJFA設立を助けてくださったのが、ウィリアム・ヘーゲさん(1891-1923年)。シルバーカップの仕掛け人でもあったらしい。その恩人が1923年9月1日、横浜総領事館の副領事であったとき、あの関東大震災のためになくなられているのである。
 90年という節目の年に起きた東北関東大震災に遭遇した今のサッカー人が、被災された人たちに心を通わせるとともに、88年前の大震災でも大切な恩人を失っていることを思い出さずにはいられない。私たち日本人は地震の多い土地に住みながら、世界中の人たちと付き合っている。

 さて、「日本とサッカー、90年」に戻ることにしよう。
 1936年8月4日、ベルリン・オリンピックのフットボール競技1回戦で、日本代表はスウェーデン代表に逆転勝ちした。東洋の未知の国から、初めてヨーロッパへ代表を送ってきた日本が、優勝候補にも挙げられていたスウェーデンに勝ったことは大きな反響を呼んだ。
 翌日の新聞は、日本のGK佐野理平のファインセーブ続出の好守と、組織的な攻撃を称賛した。
 蹴球週報といった現地の雑誌(堀江忠男選手の翻訳)などを通じて試合の流れを紹介したから、竹腰重丸コーチの技術、戦術の分析を入れたいところだが、日本代表にとっての第2戦、8月7日の対イタリア戦(準々決勝)に移ろう。
 対スウェーデン戦の勝利が華々しいだけに、この対イタリア0-8の敗戦は、また驚きでもあるが、4日の試合から中2日の休日でも回復しなかった日本イレブン(負傷の堀江に代わってFBに鈴木保男を起用)は、動きの量もスピードも落ち、組織プレーができずその特徴を失った。13分にCFのベルトーニのシュートで0-1。「蹴球週報」は『ベルトーニへパスを送った左ウイングのカッペリは明らかにオフサイドだった』として、『このゴールがイタリアを調子づかせた』と言っている。
 ときおり、日本のパス攻撃があり、金容植の鋭いシュートがあって、スタンドを沸かせた。日本のこの頃の攻めは『地を這うパスに対する日本人の才能を示す』と週報は好意的だが、ゴールを奪うまでには至らず。33分にイタリアの左インサイドFW(攻撃的MF)ビアジのシュートで0-2となった。
 観衆の中には、第1戦と同じく、日本側0-2からの反撃を期待する者もあったが、この日の日本代表にその力はなかった。
 『日本イレブンは堀江を欠いただけで、同じメンバーだったが、対スウェーデンで示した能力の半分も見せることはできなかった。そして、0-3となって試合は一方的となった。
 疲労していて、動きは遅く、守備は正確さを欠き、攻撃には鋭さがなかった。GK佐野は、チームの中で国際水準のプレーを示したが、その他は取り立てて言うべきプレーヤーは見当たらなかった。有名になった2人の加茂の翼(KAMO-FLUGEL)もCF川本も期待が大きすぎたためか、失望させた。
 この試合はレフェリーがイタリア側の度を超えた乱暴に対して遠慮して笛を吹き、サッカーをする観衆に悪い印象を与えた。試合が0-1のときに、日本に当然PKが与えられるべき場合なのに、FKを与えていたのも良くなかった』
 蹴球週報誌はイタリアが強いチームであると同時に、乱暴だったこと、またレフェリーの判定が甘かったことなどを記している。日本側は、前半は何とか持ちこたえたが、相手のラフプレーでケガ人が増えるとともに、2日間で回復しなかった疲れもあって、一気に点差がついた。
 ベルリン大会の記録映画の第2部「美の祭典」の中にサッカーのイタリア対オーストリアの決勝が映っている。私は何度も見て、イタリア選手の個人技の高さやフォームの美しさを知ったのだが、疲れの出た日本の守りが、1対1対決に持ち込まれて、そこから守りが崩壊したのだと思っていいだろう。
 CFベルトーニは、1938年のワールドカップ・フランス大会のイタリア代表にも入り、FBのラーバとフォーニは同大会の決勝にも出ていることを付記しておきたい。


(サッカーマガジン 2011年4月12日号)

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