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日本的組織プレーとストライカー 30年と36年の成功の理由

 「神戸一中蹴球史復刻版ご恵送いただき深謝、さっそくページを繰りました。(中略)われわれの頃は右近さんをはじめ諸先輩を心から尊敬し、一歩でも近づきたいと思ったものです。全国大会の合宿で右近さんにマッサージを受けたことは忘れられません――(後略)」
 神戸一中41回卒業の芦田信夫さんからハガキが届いた。埼玉に住み、「3月11日はずいぶん揺れた」そうだが、元気とのこと――だった。
 復刻版と言うのは、昭和12年(1937年)に出版された神戸一中蹴球史を、当時の部長で編集責任者であった河本春男先生(1910-2004年)が、のちにユーハイムの社長を務めたことから、そのユーハイム体育スポーツ振興会が、74年後の今年の3月に復刻版を作成して出版したもの。春男先生の長男、ユーハイム河本武社長の発案で、3月3日に神戸で、10日に東京で出版記念パーティーを催し、出席者に復刻版を贈呈するとともに、全国の関係者に寄贈した。
 芦田さんは私の兄・太郎の同窓で親友、神戸一中4年生の時に第20回全国中等学校選手権(現高校選手権)優勝、5年生の時に第10回明治神宮大会中等学校の部で優勝、神戸経大(現神戸大学)でも関西学生リーグ優勝(1946年)の輝かしい記録を持ち、神戸一中黄金期の数少ない先輩の一人だが、その文面に右近(徳太郎)さんの名があるのを見て「やはり、なあ」と思ったものだ。
 さて、昨年8月下旬からスタートしたこの連載「日本とサッカー、90年」で私たちは、1921年のJFA(日本サッカー協会)創設から15年で日本代表が極東大会を足場に成長して、36年のベルリン・オリンピックで強豪スウェーデンに勝つのを見てきた。
 これまでは、第9回極東大会(1930年、東京)での対中華民国(現中国)3-3、対フィリピン7-2の成功のあと、あまり触れていなかった第10回大会(マニラ)の不成功の足取りも眺めたことで、メンバーを集めながら失敗した原因も明らかになった。同時に、その不振にも関わらず、にほんの指導者たちは、自分たちの推し進める「組織プレーの向上」と「個人力アップ」の方針に自信を持っていたことも知った。
 初めてのオリンピック大会のベルリンでの対スウェーデン戦逆転勝利は、確かに奇跡的ではあったが、そこには技術、戦術のアップという裏付けがあり、何より30年の成功と同じように「相手に勝る運動量」と「チーム一丸」があったと言える。

 前号でその一部を紹介した竹腰重丸コーチのリポートにもこのことは明らかだが、30年の極東大会と36年のベルリン大会の日本代表の共通点として、もう一つ私が付け加えたいのは、昭和5年(30年)のチームには東大の手島志郎(1907-86年、第6回殿堂入り)、昭和11年(36年)ベルリンのチームには早大の川本泰三(1914-85年、第1回殿堂入り)という、それぞれ、その世代で卓越したストライカーがいたことだった。
 中華民国と比べても、スウェーデンの選手と比べても、個人力で劣る当時の日本代表の守りは、組織力と幸運はあっても、失点を覚悟しなければならず、その失点を回復するために組織攻撃があるとしても、そこにはチームメイトから信頼される(仲間うちでずば抜けた)得点力のある選手が必要だった。
 手島さんは、広島高師附中、広島高等学校のころからすでに「点取り屋」として知られ、東大では関東大学リーグの3年間でも23ゴール(15試合)して3連覇に貢献している。川本さんは関東大学リーグでの正確な得点記録は手もとにないが、この人の後輩にあたる釜本邦茂(68年メキシコ・オリンピック得点王)が同リーグで63年から4年連続得点王を取ったとき、古いOBたちは「川本泰三も同じようだった。ひょっとするともっと得点していたかも――」と語っていたエピソードもある。
 サッカー専門記者の第1号とも言える山田午郎さん(1894-1958年、第1回殿堂入り)は川本選手を「得点機械」と言っていた。
 マーク相手をすり抜けるうまさで知られた小柄な手島さんと、大きな間合いのドリブルの上手なスラリとした川本さんは、まったくタイプが違うストライカーだった。
 ベルリンではCFのポジションではあっても、戻ってボールを受け、「その、ノラリクラリのドリブルで相手のマークをキープしつつ、右近が守備から攻撃へ参加する間を稼いだ」(竹腰コーチ)のチャンスメークの一つの形。ここからボールが左サイドに移り、加茂正五の突破力と加茂健の速いオーバーラップが、相手DFラインを混乱させたのだろうと、私は推察している。いわば、プレーメークもできる川本を竹腰コーチは高く買っていたのだった。
 ついでながら、ドイツ語の専門誌が、水準以上に川本の名を入れなかったのは、対スウェーデン戦の1点目を川本でなく、加茂正五と見たからかもしれない。この小冊子の記録も、他の試合経過と同じように間違っているからである。
 サッカーの先進地であるヨーロッパでも、こういうこともあるようだ。


(サッカーマガジン 2011年4月26日号)

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