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五輪代表の進化を「東京」への始動 早慶の充実でサッカー人気が向上

 世界中のスポーツマン、サッカー人たちが東日本大震災に深い同情を寄せ、募金やチャリティー試合などを行っているという――まことにありがたいことだ。同時にその世界の大舞台の一つヨーロッパ・チャンピオンズリーグのベスト4に進出したシャルケ(ドイツ)で、内田篤人のプレーが見られるのは大きな喜びでもある。
 3月29日の長居でのチャリティーマッチ(日本代表対Jリーグ選抜)のキックオフ早々に、右サイドでドリブルした本田圭佑が囲まれて粘っていた時、そのボールを拾った内田がバックパスをした。そのパスのボールの速さと、蹴った「パシッ」という音を記者席から聞いた(ように思えた)とき、ブンデスリーガで戦っている内田の「日常」とその進化を感じた。日本選手の一般的な傾向であるスピードの遅いバックパスとは違っていたからである。
 おそらく、この夜の試合を見た多くのファンは、欧州組の動きの速さが国内組より鋭く感じられたはずだ。
 今から75年前、ベルリン・オリンピックに出場した日本代表が帰国し、それぞれのチームに戻った昭和11年(1936年)秋の関東大学リーグで、ベルリン組のプレーが注目され、その自信あふれるプレーが多くのサッカー好きを喜ばせた。
 代表チームに現役7人を送った早大は(HB高島保男、立原元夫、FW堀江忠男はこの年の4月卒業)9月のリーグ第1戦の対東京商大(4-6)は代表メンバー抜きで戦って1敗したが、彼らが復帰した11月7日の第2戦、第文理大(現筑波大)戦は3-0で勝ち、このあと対東京農大(6-0)、対慶大(2-0)、そして最終戦の対東大(4-0)に連勝して4勝1敗で関東大学リーグに4年連続優勝した。
 ▽GK佐野理平(代表)、FB上野敏、吉田義臣、HB笹野積次(代)、関野正隆、末岡圀方、FW加茂正五(代)、加茂健(代)、川本泰三(代)、西邑昌一(代)、大越康弘というラインアップ。
 顔ぶれの新しくなったDFは不安視されたが、ベルリンで「大会随一」とまで評価を高めた佐野によって安定し、強力FWのキープ力と得点力で、相手を抑え込んだ。昭和6年(1931年)関東リーグに早高1年生のときから出場し、ゴールを重ねてきた川本は、最終学年のこの年にも、優勝決定戦とも言うべき対慶大で2ゴール、最終戦の対東大で4ゴールと、強敵相手の全ゴールを決めている。これもベルリンで評判になった左サイドの加茂兄弟の攻撃、チャンスメークと、本番には出場しなかったが欧州での試合経験で進化した西邑(故人、後に関学監督)のキープ力とパスがストライカー川本の得点力アップにつながっていた。

 すでに慶大のスターとなっていた右近徳太郎は、ベルリンでも「大会の水準以上のプレーヤー」との評価を受けて三田(慶大のある町名)ファンの熱い視線を浴びた。この年の慶大は関東大学リーグで東京商大(4-0)、東京農大(8-0)に大勝し、文理大とは0-0で引き分けたが、伝統の東大を5-0と撃破して11月22日の対早大戦まで3勝1分けで優勝を狙っていた。
 しかも彼らはこの年の6月の日本選手権で、この学生チーム主体のBRB(慶大OB、学生のクラブ)で優勝し、また非公式ながら、合宿中のベルリン代表との試合に勝っていた。そうした背景もあって、11月22日の早慶戦は、神宮競技場のバックスタンドから観客があふれて、キックオフが遅れるといった現象も起きた。  のちに黄金期をつくる播磨幸太郎も二宮洋一もまだ若く、右近や駒崎虎夫たちの頑張りはあっても、一皮むけた早大FWたちの「老練」に敗れた。だがオリンピックでの代表の活躍と、早大の充実、それを追う慶大の台頭が、それまで東京高等師範や東大がリードしていささか地味に見えたサッカー界に華やかさを加え、世間の人気を高めたと言える。
 1921年JFA創設以来15年で、日本サッカーはひとつのステップを築き、なお目標に1940年に開催される東京オリンピックを待つことになる。と同時に早慶を中心とする大学リーグの充実と人気上昇と、サッカーの全国への浸透が進む。
 となれば、ここで慶大のサッカーについて振り返っておきたい。
 この学校でサッカークラブをつくろうとした大正11年(1922年)創立の発起人のなかには深山静夫(広島一中)、範多竜平(神戸一中)たち5人の名がある。範多さんは神戸一中19回生(大正7年、1918年卒業)だから私(43回生)より24年先輩、第1回フートボール大会の出場者でもある。
 はじめはアソシエーション・フットボールとしたが、日本ラグビーの始祖であるこの学校では、ラグビー・フットボールとまぎらわしくなるから「フットボール」を名のることができず、英国学生たちの俗称「SOCCER」を用いることで、昭和2年(1927年)ソッカー部という名で、体育会の正式の部となった。
 関東大学リーグ創設時から加わりながら、東大や早大に比べて出遅れの感があったクラブの実力アップのために濱田諭吉主将が新機軸を打ち出すことになるが、それは次号で。


(サッカーマガジン 2011年5月3日号)

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