賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >オットー・ネルツのフスバルをバイブルに 東大、早大を追う慶應の初代主将濱田諭吉

オットー・ネルツのフスバルをバイブルに 東大、早大を追う慶應の初代主将濱田諭吉

 いまから90年前の1921年(大正10年)9月10日にJFA(日本サッカー協会)が創設され、その年11月に第1回全国優勝大会(現天皇杯)が東京で開催され、東京蹴球団が優勝してFA(イングランド・サッカー協会)寄贈のシルバーカップを受けた。このことは、この連載の第6回(2010年10月5日号)で紹介している。
 このときの東部地区予選に20チームが参加して、山田午郎キャプテン(1894-1958年、第1回日本サッカー殿堂入り)の東京蹴球団がノックアウトシステムの2回戦から出場し、4試合を勝ち抜いて優勝し、東部地区代表となった。その2回戦の相手が慶應義塾アソシエーション・フットボール倶楽部だった(1-0)。慶應義塾体育会の「ソッカー部50年」によると、創立は大正11年(1922年)なっているが、これはおそらく、創始者のひとり千野正人さん(1925年卒)の寄稿に「大正11年の夏ごろ」とあったからだろう。
 ついでながら早大は1921年に高師附属中学を卒業した鈴木重義(1902-71年、第4回殿堂入り)が早稲田高等学院に入学して、蹴球部を創設し、第1回全国優勝大会の東部予選に出場、2回戦から3試合を勝ち進み、準決勝で青山師範に0-1で敗れている。
 クラブ創設は同じ頃でも、学校のグラウンドも使えなかった慶應に比べ、早大の方は環境に恵まれたことになるのだろう。次の1922年にはビルマ人のチョー・ディンの指導を受け、翌年1月の第1回全国高等学校大会(旧制インターハイ)に優勝するのは、すでに記したとおり。
 このインターハイで活躍した旧制高校から帝大(東大)へ進学する者が多くなって、東大が急速に強くなっていったことも、この連載で触れている。
 慶應のサッカーが学校の承認を受けるのは、昭和2年(1926年)4月19日、フットボールという文字を使わず、ソッカー部とすることで体育会に加入した。
 すでに東京カレッジリーグ(現関東大学サッカーリーグ)が1924年に、全国大学高専大会も1923年に始まっていた。
 その関東大学リーグの初年度は3分け2敗(早大が4勝1敗で優勝)、2年目は1分け4敗で2部に落ちた。

 3年目の1926年に2部で優勝して1部に返り咲き、体育会加入とソッカー部は濱田諭吉主将を中心に、東大、早大への追撃を始める。
 濱田主将は1906年3月4日、神戸生まれで、このとき21歳。父、長策は慶應義塾の3回生で恩師・福沢諭吉の名を長男に冠した。長策の父・儀一郎は兵庫県議や衆議院議員も務め、兵庫県の淡路島洲本では名士だったという。
 長策さんは保険会社の千代田生命の専務で、政府の嘱託として保険事業の調査のために欧米に出張したこともあり、大阪時事新報などにも保険事業について寄稿している理論派でもあったらしい。
 諭吉さん自身は甲南小学校を経て関西学院中学部を卒業、慶應の予科に入学し、そこでサッカーを始めた。主将を引き受けたのは本科2年のとき。下級生には、のちに慶應ソッカー部の「主」となる松丸貞一や豊田米吉といった有望選手もいたが、東大、早大との差は大きかった。
 先行の2校を追うために濱田キャプテンが探し当てた策は、ドイツの指導書「フスバル(FUSSBALL=ドイツ語のフットボール)」というテキストだった。オットー・ネルツ(1892-1940年)というドイツ・サッカー協会のコーチによる全8巻▽タクティク(戦術)、▽ゴールキーパー、▽フルバック、▽ハーフバック、▽フォワード、▽テクニック(技術)、▽続テクニック、▽トレーニングの各編からなり、理論的でわかりやすいところから、これを自ら日本語に訳してチームのバイブルとした。
 このキャプテンの努力を、後輩の松丸はこう記している。
 「その献身的な努力によってネルツのテキストは短期間のうちに完成された。そこには日本では誰も手をつけていないサッカーの沃野がはるかに横たわっていた。
 根気の良い研究の結果、彼の視界は開け、頭脳は練り上げられたサッカーの理論的骨格が構成された。(中略)彼の原稿は回覧され、熟読され、筆写された。
 ネルツの体系立てた理論は英書にない、ち密なドイツ人らしい構成があり、強い説得力と新鮮な魅力を伴っていた」
 こうして慶應ソッカーのリーダーとなった濱田キャプテンは「日本サッカーの理論的な指導者(批評家)となった」(松丸)
 チームも1部復帰の1年目に早大を抑えて、東大に次いで2位となった。
 ちなみに、濱田主将の妹・栄子さん(故人)はメキシコの銅メダルチームの日本代表DF片山洋さん(第4回殿堂入り)の夫人春子さんのお母さん。濱田主将は、いわば片山選手の義理の伯父さんにあたる。同氏から、いろいろな資料をいただいていることも付記したい。


(サッカーマガジン 2011年5月10日、17日合併号)

↑ このページの先頭に戻る