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濱田・ネルツ理論を受け継ぎ、新しいサッカーを目指した松丸・慶応

 前号(5月10日、17日合併号)で慶応義塾ソッカー部の創設について記し、濱田諭吉(1906-44年)という初代キャプテン(1927、28年)がオットー・ネルツ著の「フスバル」(FUSSBALL=ドイツ語のフットボール)を自ら訳して自分たちのテキストとし、先行する東大や早大に追いつき、追い抜こうとしたことを紹介した。
 日本とサッカーの90年の歩みの中で、すでに1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックまで辿ってきたところで、もう一度後戻りして慶応ソッカー部の昭和初期を描くのは昭和10年のあとさき。早慶の対決とそのあとの慶大の黄金期が、戦前の日本サッカーが最も華やかで(1940年の幻のオリンピックも控えて)選手層も充実していたからでもある。
 ついでながら、オットー・ネルツ(OTTO NERZ、1892-1946年)は第2次世界大戦前のドイツ・サッカー協会(DFB)のコーチ(ブンデストレーナー、1926-36)でドイツ代表チーム監督も務め、34年ワールドカップ3位の実績もある。この人のアシスタント・コーチで、2代目のブンデストレーナーとなったのがゼップ・ヘルベルガー(1897-1977年)で、54年ワールドカップ優勝監督となったこの人は、あのデットマール・クラマー(第1回日本サッカー殿堂入り、1925年生まれ)の師匠でもある。クラマーの兄弟子でもあったヘルムート・シェーンが74年のワールドカップ優勝監督であることは皆さんもご存じの通り。つまりネルツさんはDFBコーチ、代表監督の始祖でもある。
 濱田キャプテンは神戸育ちだが、サッカーを本格的に始めたのは大学に入ってからという。したがって、同年代の東大の「ノコさん」竹腰重丸(1906-80年、第1回殿堂)や少し年長の早大の鈴木重義(1902-71年)といった各大学のリーダーたちに比べると経験は浅いが、「吉田松陰のようだ」と後輩たちから言われた教育者的な力でチームを引っ張っていった。
 テキストの翻訳と言うのは、単に外国語を日本語に置き換える作業ではなく、それを実地に演じるための工夫も必要で、こういった作業を全員で議論することで、サッカーへの理解が深まったと言える。もちろん、技術や体力が伴わなければ、頭の中で理解しただけでは、チームやプレイヤーの向上はあり得ないけれど、オットー・ネルツの理論をよりどころに、慶応ソッカー部は進歩し、昭和6年から東大に代わって早大とともに関東大学リーグ(そして日本)のトップを争うようになった。
 理論的支柱となった濱田キャプテン、のちの濱田監督を助けたのが松丸貞一(1909-97年)。東京府立五中から慶大に進んだのが1926年、31年にはソッカー部主将となり、32年に卒業したあと千代田生命に努めつつ母校のコーチとなり、32年のリーグ優勝(早大との優勝決定戦に勝つ)を果たす。
 33年リーグ3位、34年は4勝の慶大と早大が対決して、まず3-3、第2戦(12月8日)も7-7の同点引き分けで、ともに1位。大学の1位対抗は慶大が辞退して早大が出場し京大を破っている。
 このときの松丸コーチの話。「実力は早大が上だったが、慶大は厚く守って、少ない人数のカウンターというやり方が成功し、2度とも引き分けた」

 1936年のベルリン・オリンピックで日本代表がスウェーデンというサッカー強国の代表に逆転勝ちして、ヨーロッパを驚かせたあと、この年秋の関東大学リーグで慶大は4勝1分けで早大に勝てば優勝というところだったが、ベルリンで自信を深めた6人の代表を持つ早大に0-2で敗れた。
 次の年、1937年秋の関東大学リーグで、慶大は3勝1分けで最終戦に臨み、早大にはGK佐野理平、FW加茂健、加茂正五のベルリン組は残っていたが、ストライカー、川本泰三の卒業の穴は大きかった。慶大にとって誇るべきは、この年の6月の日本選手権(天皇杯)の優勝と、その関東予選決勝で、ベルリン組5人を含む早大WMWに勝った試合の方が大きな意義があった。
 ▽GK津田幸男、FB加藤嗣夫、宮川光之、HB笠原隆、石川洋平、松元一見、FW篠崎三郎、播磨幸太郎、二宮洋一、小畑実、猪俣一穂(天皇杯決勝では小畑ではなく増田正純が出場)のメンバーは、大学のサッカーのトップチームとなるとともに、日本の頂点にも立つことになった。
 「一人がボールを受けた時、次にもらえる位置へ何人かが走る。ボールが次にわたると、また一斉にフラインステレン(フリーな位置へ動く)、そして最後はサイドからのセンタリング(クロス)かスルーパスを『直接』シュートして決める。
 防御はボールを失った時点で、そこから始まり、FWからの場合もある。保持者を追って、攻撃展開を狭くし、展開面のDFは相手に密着マーク。網は狭められ、最後は決定的なタックルの段階へと進む」
 70年前に松丸監督が掲げた「現代」サッカーが成果を上げ始めた。


(サッカーマガジン 201年5月24日号)

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