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40年「東京」を目指す日本代表の腕試し 38年、対イズリントン・コリンシャンズ

 日本とサッカーの90年の足どりの中で、私たちはJFA(日本サッカー協会)が1921年(大正10年)の創立から、わずか15年の間に素晴らしい進化をとげるのを眺めてきた。日本代表は36年ベルリン・オリンピックで1勝を挙げてヨーロッパで大評判となり、代表選手を生み出す関東、関西のそれぞれの大学リーグも充実し、早慶戦などには(東京6大学野球とまではゆかなくても)多くの観衆が集まるようになった。関西でも朝日新聞社主催の「招待サッカー」が関東、対関西の図式がアピールして会場の甲子園南運動場に多くの観客が集まるようになっていた。
 1940年に東京でオリンピックが開催されることも、追い風になっていた。
 すでにサッカーのワールドカップも1930年に第1回大会がウルグアイで開催され、34年には第2回大会がイタリアで、そして38年には第3回大会がフランスで開催されることになっていた。JFAはフランス大会に申込み、アジア予選でオランダ領インド(いまのインドネシア=日本では蘭印と呼んでいた)との予選試合を38年1月に上海で行うことにしていた。
 こうしたなかでJFAは37年(昭和12年)7月に10日間の「国際代表候補練習会」を富士山麓、山中湖の慶大グラウンドで行った。
 「東京オリンピック」の準備のひとつであり、毎年の日本代表選考をかねての合宿練習会だった。この年7月15日発行のJFA機関誌、第5巻によると。
 ▽指導委員(コーチ)は竹腰重丸、濱田諭吉、市橋忠治(時蔵)、田邉治太郎(五兵衛)、工藤孝一、手島志郎、川本泰三、大谷一二で、選手は39名。その氏名は、
▽FW ◎右近徳太郎(慶應OB)、◎川本泰三(早大OB)、大谷一二(神戸商大=神戸大OB)、増田正純、播磨幸太郎、篠崎三郎、二宮洋一(以上、経大)、◎加茂健、◎加茂正五(以上、早大)、渡辺操(東大)、前川有三(神戸商大)、林信二郎(関大)、小野礼年(京大)、田中元一、野沢幸四郎(以上、関学大)、「宗鎬(全普成)▽HBとFB 石川洋平、松本見、笠原隆(以上、慶大)、関野正隆、吉田義臣、末岡圀孝、◎金容植(以上、早大)、◎種田孝一、屬義雄、菊池宏(以上、東大)、木下勇、吉江経雄(以上、神戸商大)、三田英夫(関学大)、森正夫(京大)、前川光男(神戸高商)、康基淳、朴奎禎(以上、全普成)、李裕宝(延禧専門)▽GK 津田幸男(慶大)、◎佐野理平、◎不破整(以上、早大)、中垣内勝久(文理大)、上吉川梁(関大)(◎はベルリン五輪代表選手)となっていた。
 兵役や体調、ケガなどのため、右近、川本、前川、加茂正、康、不破、上吉川の7人が参加できなかったが、それぞれ大学チームの主力である32人の合同練習は、個人力のアップと選手たちの相互理解を進め、代表のチームワーク向上を図る上に大きなプラスになったとして、練習会は毎年行うことになった。

 こうした日本サッカーの上昇を日中戦争という暗い影が覆い始める。37年7月7日に、中華民国の北京郊外、盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突した。8月には上海でも両軍の戦闘が始まった。不拡大を唱えながら日本軍は増強され、蒋介石政権の首都・南京をも攻略して、全面戦争となってしまう。
 それだけでなく、JFAはワールドカップ参加も「非常時局」を理由に取りやめることになってしまう。
 朗報もあった。サッカーの母国イングランドからアマチュアクラブ、「イズリントン・コリンシャンズ」が世界一周の途中、38年4月に日本を訪れ、4月7日に試合をしたいと言ってきた。
 航空機がまだ発達していないこの頃、世界一周はまずは船旅――倶楽部の会長、トーマス・スミスをリーダーとする遠征チームは、37年10月にロンドンを出発し、10月5日、アムステルダム(オランダ)でのプラン・ウィット戦(4-3で勝つ)を皮切りに、欧州の各地を回り、エジプト、インド、香港、フィリピン、上海などで80試合をして58勝16引き分け7敗の好成績を収め、日本にやってきた。予定より遅れて4月6日の昼に神戸港着、三宮発の夜行列車で東京へ向かい、7日朝に到着。
 迎え撃つ日本側は、東京・日本青年館で第2次合宿中の日本代表候補の中から、全関東チームを選抜した。▽GK津田、▽FB吉田、菊池、▽HB森孝雄(東大)、種田、金容植、▽FW篠崎、播磨、二宮、加茂健、加茂正。3FBのストッパーに種田、左HBに金容植と、ベルリン経験者、GKは佐野でなく、慶大の津田、FWはCFの二宮と右の篠崎、播磨の慶大トリオに、左はベルリンの早大ペア、加茂兄弟というラインアップだった。
 午後2時キックオフ。降雨で滑りやすい明治神宮競技場(現国立)のピッチで展開された新しい代表の国際試合は予想外の結果となる。詳細は次号に――。


(サッカーマガジン 2011年5月31日号)

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