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東京五輪返上でも近代化進み、 中学チームも3FB、CF二宮も成長

 キリンカップサッカー2011の第1戦、日本代表対ペルー代表(6月1日、新潟・東北電力ビックスワンスタジアム)は0-0でした。これまでのメンバーに新しい人材を加えることができるかどうかをテストしている今の日本代表にとって、ペルー代表は手ごわいチームだった。選手たちはもちろん、観戦、応援されたファンの皆さんも、サッカーの基盤である1対1の強さをペルーの選手たちから感じられたことだろう。
 同じ会場で行われたU-22代表の日本対オーストラリアは、前半の早いうちに失点した日本が同点に追いつき、後半に逆転し、楽しい試合だった。永井謙佑という俊足で、体の強いFWの威力を見せ付けた形となったが、アジア大会で自信をつけた彼がゴール近くでも落ち着いている様子が見えた。
 1点目はスルーパスに合わせて、前へ走り込み、DFを置いてきぼりにしてGKのアンドリュー・レッドメインの構えを見て、右足でニアサイドを抜いたのだが、GKにセーブされないように小さく浮かせて蹴っていた。相手DFのヘディングのバックパスを呼んで走り込んで決めた2点目は常に狙う姿勢の表れ。チームの3点目になった大迫勇也のゴールは、永井が右サイドを走って、ボールを取り、相手DFがスピードを恐れて詰めに来ないのを見て、FKさながらに余裕を持ってクロスを蹴り、大迫の前へ落として、そのスライディングシュートを生み出した。相手のオーストラリアが、後半に動きが鈍ったことが逆転勝ちの大きな条件であったにしても、U-22でこういうストライカーが伸びてくれることは、とても楽しいものだ。

 さて、話は連載に戻り、いまから73年前、1938年(昭和13年)にタイムスリップ――
 前々号(6月7日号)で、申し上げたとおり、この年4月7日、世界一周の途中のイングランドのアマチュアチーム「イズリントン・コリンシャンズ」を迎えた試合で全関東代表が4-0で破った。
 前の年に始まった中国本土での日本軍と中国軍との衝突は、どんどん拡大して日中戦争となり、このことからアメリカやイギリスなどの国々とにほんとの関係も厳しくなっていた。サッカー母国からの初の来日チームを迎えても、「時節がら」この対戦はそれほど華やかにはならなかった。
 相手側には疲れが見られ、期待ほどのプレーではなかった不満は残ったが、「運動量を豊富にして組織プレーで守り、攻める」という当時のJFAの竹腰重丸技術指導委員(1906-80年、第1回JFAサッカー殿堂入り)たちが考えていた日本流サッカーで、「母国」のアマチュア強豪チームに勝ったのは、地震となった。それは2年後の東京オリンピックにもつながるはずだったが…。
 残念ながら、第11回オリンピックの東京開催は取りやめとなる。この年7月15日、日本政府が組織委員会に中止を勧告し、組織委は開催返上をIOC(国際オリンピック委員会)に通知したのだった。
 
 スポーツのためには、徐々に窮屈になってきた社会だったが、サッカー界の進化は進んでいた。ベルリンオリンピックで日本代表チームが初めて採用した3FBシステムの守りが、2年後の全国中等学校蹴球選手権大会(現高校選手権)でも見られた。兵庫代表の神戸一中(現神戸高校)は、相手の得点力あるCFに専門のマーク役をつけて、それまでの2FBを3FBとして後方から3FB、2HB、5FWのWM型のフォーメーションを取った。
 Wの字の形に似たFWは両ウイングとCFが前、2人のインサイドフォワードが、いまでいう攻撃的MFの役となるので、実際には後方から見ると、3-4-3、あるいは3-2-2-3となる。もちろん、試合の流れによって、相手によって、変化もあるが、相手の最も得点力あるFWであるはずのCFにマンマークを当てることで、神戸一中は兵庫予選から本大会決勝まで無失点で優勝した。
 中学生年齢、今でいうU-17にめで守備システム、あるいはフォーメーション論も一部ではあるが、語られるようになっていた。
 トップクラス、日本代表のメンバーも充実し始めていた。ベルリン大会組では若手の左ウイング加茂正五のプレーに磨きがかかっていた。
 加茂正より2歳若く、ベルリンのときはまだ18歳、慶大の予科の2年だった二宮洋一(1917-2000年、第2回殿堂入り)が対コリンシャンズ戦で働いたのも収穫だった。ベルリンでの実績を持つストライカー川本泰三が兵役で不在であり、前年の関東大学リーグで、日本選手権(天皇杯)優勝の慶應FWの右トリオをこの試合に起用したのだが、ヘディングによるゴールだけでなく、パス攻撃の軸としてもいい仕事をした。このストライカーの成長によって慶大と慶大BRB(慶大のOB、学生混合チーム)は、大戦前のサッカー界で最も華やかなチームとなる。
 JFAはこの頃、サッカー技術の映画をつくって、文化映画としてニュース映画館などで上映した。そのモデルは二宮選手だった。


(サッカーマガジン 2011年6月21日号)

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