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松丸 慶應は無敵の王者 情勢悪化の中で進化は続く

 1938年(昭和13年)は日本サッカーにとって多彩であり、また多難の年でもあった。世界一周途上のイングランドのアマチュアチーム「イズリントン・コリンシャンズ」を迎えて、関東選抜チームが4-0で快勝し(6月7日号に掲載)、36年のベルリン・オリンピック以後も進化し続けている証を見せた。
 しかし、一方ではこの年6月のフランスで開催された第3回ワールドカップには参加申し込みをしながら、結局は出場を辞退した。前年に始まった中国本土での日中戦争が、この年に入って、ますます拡大して「非常時」の名の下に多くの催しの自粛ムードが高まった。JOC(日本オリンピック委員会)は7月に政府の勧告を受けて、40年に開催を予定していた東京オリンピックをIOC(国際オリンピック委員会)に返上することを決めたのだった。IOCはフィンランドのヘルシンキを代替地に選び同市も受諾したが…。
 東京オリンピックという強化の最大の目標を失ったが、日本サッカーは前進を止めなかった。
 JFA(日本サッカー協会)の機関誌「蹴球」にはパリでのFIFA総会に出席し、ワールドカップ・フランス大会を観戦した野村正二郎理事長のリポートが上中下3回にわたって掲載された。代表候補の強化合宿と、毎年の代表候補の選考は続けると決めていた。
 技術指導の理論や、戦術の研究も進んだ。イングランドをはじめ、外国の文献、指導書の翻訳も増えた。機関誌には国内の各大会、ビッグゲームについての記述も増えた。
 1930年第9回極東大会で活躍した世代や36年ベルリン・オリンピック代表世代の発言も増えて、サッカーの言論界も賑やかになっていた。

 そうした進化の先頭に立ったのが前年(1937年)に事実上の日本のトップリーグである関東大学リーグのチャンピオンとなった慶大だった。そのFWの篠崎三郎、播磨幸太郎、二宮洋一の3人は、対イズリントン・コリンシャンズでも活躍したが、秋の関東大学リーグでも5戦全勝で優勝した。この年は、日本選手権(天皇杯)で早大に敗れ、東西学生王座戦でも関西学院大に負けたが(2-3)、次の年は5月の日本選手権、関東大学リーグ、東西学生王座もすべて勝った。日本選手権は準々決勝で、朝鮮地方代表の全延祷、準決勝が東大、決勝が早大が相手だったから、当時最強のライバルを倒しての優勝と言える。次の年も日本選手権と関東大学リーグ、東西学生王座に勝っているが、この時も準決勝で全不普成(朝鮮代表)、決勝で早大WMWを倒してのチャンピオン。昭和14、15年(1939、40年)の2年間は無敗だった。
 松丸貞一監督は、初代の濱田諭吉監督と同じように、ドイツのオットー・ネルツの理論の信奉者。チームのフォーメーションの基本をWM型=3FB、2HD、5FWとしていたことはすでに紹介(5月24日号)しているが、現代にも通じる攻撃の理論を理想に掲げ、それに選手を当てはめてゆこうとした。
 今のように、多数の少年が幼いうちからボールを蹴り、多彩な個性がボールに慣れた状態で、大人のチームに上がってくるのとは異なる環境の中で、まず指導者が頭の中で型を考え、それに合わせた個人プレー(ポジションプレー)を指導するという松丸さんのやり方は(一部で批判する人もあったが)この時期の慶大では成果を上げた。
 もちろん、そこには播磨幸太郎(1915-53年)という別格のインサイドFW(攻撃的MF)がいたこと、そして二宮洋一(1917-2000年、第2回日本サッカー殿堂入り)というストライカーがチームとともに成長したことも大きいが、一人ひとりのポジションプレーがしっかりしていて、見ていても楽しい攻撃的なチームだった。
 播磨さんは神戸一中で私より9年先輩。第15回全国中等学校選手権(現高校選手権)で優勝し、慶應に入ると予科1年からレギュラーとなった。ドリブルがうまく、パスを出すタイミングが絶妙。右ウイングの篠崎、CF二宮への配球で、多くのチャンスを生み出していた。
 日本代表がベルリンから持ち帰った3FBが守りの新しい形となったが、これを消化した早大の守りと慶大FWの攻防は、この時期のサッカー界の話題のひとつでもあった。
 その右からのチャンスに、第2列から走り込んでゴール前へ絡んできたのが小畑実。広島一中出身のこの人は、のちに初期の日本サッカーリーグの牽引車、東洋工業のリーダーとなったことは知る人ぞ知る。
 この時期のサッカーの幅の広がりを示すのに朝鮮半島(日本の統治下にあった)のサッカー勢力の高まりがある。それについてはまたの機会とするが、当時旧制の中学生であった私たちにも、半島出身の名選手の名は親しいものになった。
 メンバーの表記が変わったのも1938年。イズリントン・コリンシャンズ来日の副産物――。それまでのFW左サイドからでなく、現在と同じGKからとなった。
 大戦争の足音が近づいても、サッカー興隆の熱意は消えることはなかった。


(サッカーマガジン 2011年6月28日号)

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