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戦前のU-17全国中等学校選手権 1935年「夏」への移行

 U-17ワールドカップの中継を民法のBS映像で追いながら、モンテレイ(メキシコ)の暑さのために選手たちの動きが止まってしまうのを見て、いまさらながら「夏」のサッカーの辛さを思い出した。「日本とサッカー、90年」の今回は、戦前のU-17とも言うべき、全国中等学校選手権大会に「夏」が持ち込まれたあたりについて――。
 それまで冬に開催されていた大会が夏に代わるのは昭和10年(1935年)から。当時の日本サッカーにとっての大切な国際大会のひとつである極東大会が、暑い国フィリピンのマニラで行われること、またオリンピックも夏に開催されることなどを考慮して、主催者の大阪毎日新聞社が昭和9年に次の年度からの「夏の開催」を打ち出したもの。
 このために空白になる昭和9年夏に全国中等学校招待大会(8月27、28、29日、南甲子園運動場)を大会のリハーサルとして行うことにした。招待されたのは、神戸一中(兵庫)、御影師範(兵庫)、刈谷中学(愛知)、青山師範(東京)、明星商業(大阪)、広島一中(広島)の6校。ノックアウトシステムで神戸一中が優勝した。7人の年生(旧制中学は5年生)は二宮洋一(第2回日本サッカー殿堂入り)をはじめ、皆のちに日本代表、あるいは代表候補になった人たちだった。
 次の年、1935年、第17回全国中等学校選手権が8月22日から4日間、南甲子園運動場で行われた。予選は私たち兵庫県では8月7日-11日にやはりノックアウト制で行われたから、他の地域も同じ頃のはず。
 予選を勝ち抜いたのは、函館師範(北海道)、宮城師範(東北)、東京高師附属中学(関東)、富山師範(北陸)、刈谷中学(東海)、滋賀師範(京阪奈)、天王寺師範(阪和)、神戸一中(兵庫)、広島一中(中国)、香川師範(四国)、長崎師範(九州)の12地区代表で、旧制中学校(現高校)は4校、他の8校が2歳年長の師範学校(小学校の先生を育成する学校)だった。
 優勝したのは神戸一中で、前年の招待大会優勝(というよりも同世代相手に無敵)チームでプレーをした大谷四郎(第6回殿堂入り)や金子彌門といった力のある経験者がいて▽1回戦、8-0滋賀師範、▽準々決勝、6-2広島一中、▽準決勝、5-1刈谷中と勝ち上がり、決勝で天王寺師範と対戦した。
 天王寺は、準々決勝で東京の高師附中と延長で5-3の接戦をした以外には、香川師範を8-0、富山師範を11-1と大差で下しての決勝進出。すでに、5月の招待大会で対決している両チームは互角の戦いを演じたが、神戸一中が「大会随一」と言われた大谷の20メートルシュートなどで、2-1の勝ちを収めた。
 夏の炎天下の連戦は、主催者の大阪毎日新聞社側にも、選手たちの体力面での懸念もあったようだ。大会の後記として、同社の運動部記者・斉藤才三(1930年日本代表GK)は「この大会は昨年夏および、5月の招待大会の2回の準備を経て冬から夏への改革となった。その夏の第1回ともいうべき大会に神戸一中が2年ぶり4度目の優勝を遂げた。5月の招待大会では、各チームに2人、3人と足のけいれんを起こす者もあったが、この大会では酷暑にもかかわらず、よく走り回った」と記し、神戸一中と天王寺師範の決勝のようなレベルの高い試合があったことなどから、夏という条件のなかでも進歩があったと述べている。
 ベルリン・オリンピックの年、1936年8月、中学校の全国選手権は、九州も南、北と2代表に、関東も東京と関東2の合計3代表となり、全国で14地域となった。優勝は広島一中(中国)、前号の慶應黄金期に名を上げた小畑実がいた。一枠増えた関東から埼玉師範が出場し、準決勝で同じ関東の韮崎中に敗れた。のちの埼玉県協会理事長、池田久さんをFBとするこのチームが優勝するのは次の第19回――。
 このとき優勝旗が初めて箱根を越え、それまでも小学生にすでに浸透し始めていた埼玉のサッカー熱がさらに高まり、大戦後の隆盛から今の浦和レッズへの市民のサポートに至るルーツが大きくなるのだが…。
 戦術あるいは、システムの進歩のひとつとして、先述した(6月21日号)1938年の神戸一中の3FBは次の第20回大会だが、このときのもう一つの注目は正式に朝鮮半島と台湾の2地域を含め16代表となったこと。特にサッカーが早くから盛んな朝鮮地方が加わることで大会の進化速度が速まると期待された。
 次の21回大会には朝鮮地方の予選で優勝した平壌三中が学校の都合で棄権し、第2位の倍材中の出場が認められながら、8月22日から朝鮮内の学校の授業開始となって、参加できなくなってしまった。
 もっとも、この昭和14年(1939年)の大会には京都の聖峰中学という朝鮮出身の子弟の学校のチームが京都・滋賀・奈良地区の代表となって出場し、どんどん勝ち上がって決勝で広島一中と対戦した。0-3で敗れたが、このチームが勝つたびに、南甲子園運動場のスタンドは賑やかになった。中学生の私も朝鮮地方のサッカーと、サッカーで勝つ喜びの大きさを知るようになった。


(サッカーマガジン 2011年7月12日号)

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