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全国中学選手権に朝鮮代表が参加 ベルリン以後の進化を示す

 U-17日本代表が、低地では暑く、高地では酸素が薄いという難しい条件のメキシコでのワールドカップで、ノックアウトシステムの1回戦にも勝ちベスト8に進んでいる。メキシコと言えばアマチュア時代の日本代表が43年前のオリンピックで3位になり、銅メダルを獲得している。幸い季節は秋、10月。問題の高地順応に成功した日本は、ナイジェリア、ブラジル、スペイン、フランス、ハンガリー、メキシコといった名だたるサッカー国を相手にして3位となった。今度はメダルまで行くと当時より1試合多くなるが、ここまできた以上、できるだけ多く、良い相手と試合をしてほしいを願っている。
 U-17と暑さと言う点から、前号は、日本とサッカー90年のなかでの戦前のU-17、つまり旧制中学校の全国選手権(現高校選手権)が冬から夏に移行したいきさつに触れた。
 先述(前号参照)のとおり、オリンピックが夏に開催されるというのが理由の一つであったが、8月下旬の残暑の中で決勝までの4連戦は、たとえ30分ハーフの試合でも当時の中学生にはなかなかの重労働だった。ちょうどこの時期、昭和12年(1937年)から神戸一中(現神戸高校)に在籍して、大会を見てきた私が痛感したのは、37年の神戸一中が決勝で埼玉師範に敗れたときだった。1回戦で盛岡中(東北)を6-1、準々決勝で函館師範を4-2、準決勝で豊島師範を4-1で破り、4日目の決勝で埼玉師範と顔を合わせた神戸一中は、前半2-1とリードしながら、後半には完全に体力負けの感じで、5点を奪われ2-6で敗れてしまった。
 埼玉師範は、その前年にも関東の代表となって出場しながら、故障選手が出て準決勝で韮崎中学に2-5で敗退した苦い経験があり、この大会に勝つためには、まず「体力」と考えて、選手全員が寄宿舎生活である利点を生かして、十分に鍛えた。大会の前も一学期終了から出発直前まで、午前、午後にわたって練習したという。1回戦で湘南中を7-1、準々決勝で富山師範を3-2で破り、準決勝では大阪の名門、明星商業(現明星高校)を13-2の大差で破った。決勝の前に選手たちは「前半失点を2点に抑えれば、後半の体力で粉砕できる」と話しあったという。
 神戸一中には私の兄・太郎(当時3年)もいた。4年生には友貞健太郎という、ずば抜けたウイングもいたが、体格、走力ともに勝る埼玉師範のイレブンには歯が立たず、観戦した私は、風上に立って、ロングボールを蹴り込んでくる相手を見ながら「まさに蹂躙だ」と思った。

 次の1938年大会では、神戸一中と豊島師範が3FBという新しいフォーメーションを持ちこんだ。このことは6月21日号で紹介しているが、この夏に移って4年目のもう一つの話題は、朝鮮、台湾という、当時の日本の一部で、内地と離れた地域の代表も予選を経て参加するようになったこと。
 大正15年(1926年)1月の大会から予選制度による全国大会となり、その1回目は8地区で朝鮮代表も参加。このときの倍材高普がチーム1回戦で御影師範(兵庫)に0-3で敗れ、次の10回大会(昭和3年)、1929年1月には朝鮮代表の平壌崇実が優勝している。
 次の11回大会にも平壌高普が参加して、決勝で御影師範と延長の末5-6で惜敗した。御影師範も黄金期にあって、優れたプレーヤーがそろい、それだけにこの大激戦は私たちの先輩たちに強い印象となって残っていたようだ。
 その後、朝鮮地域代表はしばらく大会から遠ざかっていた。それが第20回大会から16地区代表の参加となって、復活したのである。
 すでに前年の全日本総合選手権(現天皇杯)で全京城蹴球団が参加して優勝していた。このチームには、次の年のベルリン・オリンピックで活躍する金容植選手もいた。全京城は、この年、秋に開催された明治神宮体育大会でも優勝して2冠となっていた。そうした背景もあって、戦前のU-17とも言える旧制中学校選手権はこの地方のチームの参加で幅も広がり、質も高まると期待された。
 朝鮮地方の代表、崇仁商業を含む16チームの大会は、8月25日、南甲子園運動場で開幕、29日までの5日間にわたって行われた。崇仁商は1回戦で函館師範を2-1で破り、準々決勝で前年の優勝チーム埼玉師範を2-0で倒した。
次の相手は神戸一中だった。ここは1回戦で評判の高い豊島師範を3-0で下し、準々決勝で北九州の海星中学をも3-0で退けてきた。
 私は準々決勝の崇仁対埼玉を見た。埼玉は前年のチームから5人が卒業したが、まだ半数が残っていて、いいチームだったが、崇仁の力に押し切られた。崇仁ではCFが相手DFを背にしながら、見事な反転シュートを決めたのが印象に残った。
 準決勝の当日、スタンドはカーキ色の神戸一中の生徒たちと崇仁を応援するファンで賑やかだった。
 埼玉師範を圧倒した「当たり」の強さを警戒して、神戸一中の河本春男部長は接触プレーを避けるように指示していた。
 

(サッカーマガジン 2011年7月19日号)

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