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全国中学校選手権で 目立つ朝鮮地方代表と神戸一中

 なでしこジャパンのワールドカップ優勝の余韻はまだまだ続いている。テレビ番組で、女性アナウンサーが、ユニフォーム姿になって、澤穂希キャプテンから対アメリカ2点目のプレーをボールを使って、教えてもらっているのを見ながら、60何年か前の駆け出し記者時代に、先輩から「女性のニュースは男子の3倍の値打ちがある」と教わったのを思い出した。
 ベースボール(野球)という手でボールを扱う競技が一足先に盛んになって「足でボールを扱う――のが当たり前」という世界の一般常識とはかけ離れた環境の日本で、徐々に「手を使わないフットボール(サッカー)」が広がって、いまの状態になったところで、女子にもワールドカップがあり、それが野球のWBC(ワールドベースボールクラシック)などよりも、より大きな国際的組織で行われていることを、日本の女性たちや多くのコメンテイターたちにも知ってもらったのは、とてもいいことだと思っている。
 澤キャプテンたちは、このあともなでしこリーグで良いプレーを見せて体調を整え、9月に迎える難関のロンドン・オリンピック予選を良い状態で戦ってほしいと願っている。
 さて連載は、なでしこの番外編2回のあと、7月26日号の後を受けて、42回目に入る。41回では1938年(昭和13年)の第20回全国中等学校選手権大会(現高校選手権大会)での神戸一中(兵庫代表、現神戸高校)対崇仁商業(朝鮮地方代表)の試合を取りあげ、大会のクライマックスともいえる準決勝で、神戸一中が2−0で勝ったことを紹介した。
 私がこの旧制中学の2年生であったこの頃は、いまの高校選手権に比べると大会の技術レベルは低く(貧弱な環境の中で当然だが)そのなかで、朝鮮地方代表の技術と体力は抜きんでていた。神戸一中は特有の育成法で当時、別格のチームづくりをしていた。その結果が記述のとおり2−0という勝利になった。
 点を取るためには、何回かシュートチャンスをつくること、そのためにはボールをつなぎ、どこかで決定的なパスを出すこと、そしてそれを××が決めること――、という攻めの練習とともに、守りの1対1、1対1で取れなければ、間合いを詰めて相手のスピードを遅らせ、シュートのタイミングを遅くさせ、別の選手がボールを奪いに行く――。その考えを訓練で頭に叩き込み、体に埋め込んだ。夏の暑熱のなかでの苦しい練習の一つに「追い合い」があった。攻撃参加をしたHBがボールを奪われたときに、全速力で自らのゴールの中まで走ってカバーに入る――、一旦ゴールラインまで戻ってそこから再び前に出ていく「しんどい」練習は、効果もあった。
 当時の4年生のHB(守備的MF)芦田信夫は「カウンターを受けてピンチになったとき、懸命に戻ってゴールカバー、シュートが来たのをクリアした。5年生のGK小畑儀弘がナイスカバー、サンキューと言った。彼はそれまで一度もほめたことはなかったのに」と話した。
 決勝の相手は滋賀師範。5−0で神戸一中の5回目の優勝となった。

 40年に予定された「東京オリンピック」は7月に開催返上していた。中国での戦争はますます拡大していった。次の年1939年9月には、ヨーロッパで第2次世界大戦は始まるのだが、昭和14年は、まだサッカーの関東、関西の大学リーグも天皇杯も、旧制高校のインターハイも、第21回中等学校の全国選手権(広島一中が優勝)も予定のとおりに行われた。
この年秋の第10回明治神宮国民体育大会に、これまでのサッカー一般の部に新しく中等学校の部も加わった。この大会は明治神宮体育会が主催していたのを、前年に新設された厚生省に移管されたもの。民間団体の主催が「国」の主催となって規模も大きくなり、昭和天皇も臨席され、サッカーの中学校優勝チーム(神戸一中)と師範学校の部優勝チーム(広島師範)が10分間の「天覧試合」を行っている。
 次の1940年(昭和15年)もサッカーのリーグや大会は予定どおり開催された。第22回全国中学校選手権では、前年に不参加になった朝鮮地方から代表として普成中学が出場して圧倒的な強さで優勝した。秋の明治神宮大会には中学の部で中東中学、一般の部で咸興蹴球団と、ともに朝鮮地方代表が優勝している。
 大戦争の足音が近づく中でJFAとその仲間たちはベルリン・オリンピックで火をつけたサッカーの進歩を続けたいと懸命だった。代表チームの毎年の合宿練習や明治神宮大会のときの中学生たちに「練成合宿」という合同生活を企画し実行したこともその表れの一つだった。
 1941年度には、日本陸軍の満州での大演習のための物資輸送のため鉄道交通がマヒし、すべてのスポーツの夏休み中の全国大会が中止され、この年の中学生選手には明治神宮大会が唯一の全国大会となった。
 神戸一中の5年生であった私も、この大会の準決勝で青山師範と、そして決勝で朝鮮代表の普成中学と対戦した。青山師範には後に東京教育大(現筑波大学)の監督となる長身の太田哲男さんが(故人)がいた。


(サッカーマガジン 2011年8月16日号)

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