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青山師、修道、普成、神戸一中 4強が争った開戦直前の明治神宮大会

 国民栄誉賞の受賞も決まって、なでしこフィーバーはまだ当分続きそうだ。連載はいま1940年代の大戦前の日本サッカー。なでしこから見れば祖父にあたる世代のプレーを追っているところ――。前号では1941年に、私自身が出場した第12回明治神宮大会に触れた。
 明治神宮大会は、大正13年(1924年)に始まった。
 1912年に、明治天皇が崩御されたとき、明治神宮が造営され、そのご威徳を讃えることになったが、神宮とともに、その外苑にスポーツセンターが建設されて、竣工を祝う総合スポーツ大会が開催されたのだった。野球、テニス、陸上競技、サッカー、ラグビー、ホッケー、バレー、バスケット、水上、ボート、柔道、剣道、弓道、馬術、相撲の15種目。地方予選を経て、参加3144人、10月30日から11月3日までの5日間にわたって行われた。
 以来、少しずつ種目を増やし、また会場の整備も進んで、第4回(1927年、昭和2年)まで毎年行われ、第5回から第10回までは隔年開催になっていた。始めのうちは内務省が主催し、明治神宮競技大会協賛会が運営にあたった。
 JFA(日本サッカー協会)は第3回全国優勝大会(現天皇杯)を第1回明治神宮大会サッカー競技と兼ねることにした。明治神宮大会での蹴球競技(サッカー)の部(一般)の権威を高めるとともに、この大会の観客動員力や組織力によってのサッカーの浸透をはかろうと考えたのだった。
 天皇杯の古い歴史を見ると、ところどころに第○回大会兼第○回明治神宮大会というタイトルを見かけるのはこのためである。
 兄・太郎(第2回日本サッカー殿堂入り)が神戸一中5年生のとき、第10回神宮大会から中学の部と師範学校の部が設けられた。この年から中等学校の全国大会は、夏の全国中等学校選手権(現高校選手権)と秋の明治神宮大会の2本立てとなり、次の年にも続くのだが、1941年には、夏の大会は消えてしまう。

 昭和16年夏はまだ太平洋戦争は始まっていなかったために、ヨーロッパの戦争で、ナチス・ドイツの軍隊がソ連に攻め込んでいて、ソ連軍の極東兵力の牽制のために関東軍(満州国に駐留していた日本陸軍のこと)が特別大演習を行なった。そのための、兵力と物資の輸送に鉄道の能力をフル稼働しなければならず、不急の旅行は一切ストップとなり、夏休み中の各種スポーツの全国大会は例外なく中止となった。
 私たちのチームは兵庫県の大会(本来なら、夏の全国大会予選となるもの)に優勝したあとに本大会中止を知らされてガッカリした。秋の「明治神宮大会は開催される」というのが救いだった。
 その予選が9月に行なわれ、兵庫県予選に勝ち、近畿予選では、まず和歌山代表、次いで京滋代表の聖峰中学と対戦した。
 ここは朝鮮半島出身者の子弟が集まるところで、2年前から急速に力をつけていた。体格が良く、強蹴力があり、ロングボール、ハイボールを多用しての攻めに、しばらく押し込まれたが、カウンターで1ゴールすると、こちらに落ち着きが出て、2点を加えて前半に3−0、後半も無失点で切り抜けた。
 PKを含んで2ゴール、1アシストが私の記録だが、うれしかったのは3点目のアシスト。右のペナルティーエリアの根っこでボールを受け、ファーポストへふわりと浮かしたクロスを送ると、ヘディングで仲間が決めた。このチームのFWの攻撃の一つ、ペナルティーエリアのゴールライン際からのパスで決めたのだから、ちょっとうれしかった。
 東京での明治神宮大会は、前年と前々年には練成合宿は行われなかった。多くの若者を集団生活させるための食糧をはじめ物資が揃わなかったのだろう。
 前年5月にはアジア各国を集めた国際大会「東亜大会」も開催したのだが、次第に社会全体の「余裕」はなくなっていたのだろう。私たちは、自分のチームだけ本郷の旅館に泊まって試合をした。
 1回戦の熊本師範は7−0だった。準決勝では青山師範と対戦した。スケールの大きい、素晴らしいチームだった。CHに長身の太田哲男さんがいた。東京在住の先輩たちは、朝鮮代表よりも、青山師範の方が強敵だと言っていたが、3−0で勝てた。
 会場の新丸子の第一生命グラウンドが少し狭く感じたが、それが相手の大きな展開の効果を薄くしたかもしれない。何十年後にスポーツ心理学の大家となった太田先生と話をしたとき「神戸一中のサイドキックにやられた」と――。
 決勝の相手、普成(朝鮮)は準決勝で修道(広島)を下しての進出だった。前半はこちらのボールが回って2−0。後半は相手の力攻めで0−2。朝9時か10時開始で、体がほぐれた頃にタイムアップ。引き分けで双方が一位となった。
 相当に練習したつもりだったが、完勝とはいかなかった。相手も強かったが、もう少し当方の技術が伸びていたら――、あの時こうしていたら――、70年後の今も折に触れて思い出す。


(サッカーマガジン 2011年8月23日号)

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