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大戦2年目、不思議なスポーツ扱い 1年だけの橿原大会も

 8月15日は古くからの「お盆」だが、同時に「終戦記念日」――鎮魂の日でもある。今年はちょうど、太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦(1941年12月8日)から70周年ということもあり、見ごたえのあるテレビ番組も多かった。
 この「日本とサッカー、90年」の連載も、前々号で対戦の始まった昭和16年を振り返ったところ(前号は、番外編として日本3-0韓国をテーマとした)。さて、大戦の日本サッカーは――。
 誰が考えても「たいへんな相手と戦争を始めた」と思ったはずだ。
 それでも、1942年(昭和17年)の前半は1月の英領シンガポールの占領。3月、ジャワ島のオランダ軍降伏と、続いて南方での勝利が伝えられ、また開戦時の真珠湾攻撃などによってアメリカ軍による日本本土への攻撃はないだろうと言うことになって、しばらく日常生活は平静だった。
 もちろん、物資は徐々に窮屈になっていた。サッカーをするために一番必要な革製のボールは、昭和15年から配給制となっていた。中学生のときすでに、自分の手でボールを修理していた私は大学予科に入ってからも同じことを続けていた。
 物の統制だけでなく、政府のスポーツの統制も始まっていた。文部省は「学徒体育振興会」という団体をつくって、すべての学生のスポーツの大会は文部省傘下(学徒体育振興会主催)に入れることにした。
 誰もが驚いたのは朝日新聞主催で長い間やってきた全国中等学校野球大会(いまの甲子園)も、この統合に組み込まれたこと。
 毎日新聞主催の全国中等学校蹴球選手権(現高校選手権)も同じだった。8月22日、奈良の橿原神宮近くに新設された橿原神宮陸上競技場での開会式を皮切りに文部省、学徒体育振興会主催の「全国、男子中等、師範並びに全国国民学校、青年学校教員、三体育大会」という長い名前の総合スポーツ大会(11種目)が22日から29日まで開催された。
 高校サッカー史によると、いまの高校選手権の前身の(旧制)中等学校選手権大会は1940年(昭和15年)の第22回大会のあと、23、24、25回は戦争のために中止となっているが、必ずしもそうではなかった。
 どこが主催しようと選手たちは目の前の試合に全力を尽くす。この「学振」大会での中学校サッカーでは神戸一中(現神戸高校)が優勝した。1回戦で東京府立五中を破り(6-0)、準決勝で刈谷中(7-0)を倒し、決勝でも修道中を大差(9-0)で破った。岩谷俊夫主将(第2回日本サッカー殿堂入り)をはじめ、良いメンバーがそろっていて技術面の開きがあった上、暑さの中での体力差も大きかった。彼らは、兵庫県および東中国予選と本大会の合計9試合で70得点、失点0の記録をつくった。
 秋の神宮大会には、朝鮮地方代表の倍材中学も出場し、師範学校と同じカテゴリーで試合をした。神戸一中は倍材(3-0)に勝ち、仙台一中(2-0)を破り、決勝で青山師範と対戦し、2-2で引き分け、両チームが1位となった。この大会の一般の部は前年同様に朝鮮地方代表が優勝した。

 文部省・学振は高等学校も夏に14種目の全国総合大会として行った。サッカーでは熊本の五高が初優勝して伝統校を驚かせ、戦前最後のインターハイに名を止めた。
 大学リーグは、この年は東西ともに春にリーグ戦、秋にノックアウト制の選手権を行った。関東リーグでは大谷四郎率いる東大が早大を抑えて優勝した。関西では兵庫、大阪、京都で代表を決め、関学(兵庫)が昭和高商(大経大=大阪)、京大(京都)にそれぞれ5-2、3-1で勝って優勝した。7月に東西大学一位対抗が行われ、東大が8-1で大勝している。
 ちなみに、秋の大学選手権では関東は早大、関西は関学が勝ち、43年1月に西宮で大学一位対抗を行い、早大が10-0で勝っている。
 国際大会もあった。8月8日から4日間、満州国で同国建国10周年を記念して東亜競技大会が、当時の首都・新京(長春)の南競技場を中心に14種目の総合大会として行われ、サッカーでは日本代表が中華(6-1)、満州(3-0)を破って優勝している。
 しかし、スポーツ行事に若者が熱中できた夏は、この年まで。6月のミッドウェー海戦で日本海軍は手痛い敗北を蒙ってから、戦勢はアメリカ側に傾いた。ヨーロッパの戦線でも、同盟国ドイツの勢いは止まり、連合国側の反攻が始まった。
 それでも、まだ学生たちにサッカーの楽しみはあった。神戸外人クラブ「KRAC」のグラウンドを神戸市が管理することになり、市民の使用が始まった。授業を抜け出し役所へ申込みに出かけてくれる仲間のおかげで、月に何回かは芝生の上でボールを蹴ることができた。
 1943年(昭和18年)10月になって学生の徴兵猶予制度が廃止となり、文化系の大学生は徴兵の適齢期、つまりU-20より上は、健康なら軍務につくことになった。
 サッカーの公式の競技はしばらく中止となった。


(サッカーマガジン 2011年9月6日号)

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