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瓦礫の中からサッカー復興 大きなステップとなった天覧東西対抗

 1945年8月15日、太平洋戦争は日本側の無条件降伏で終結した。
 3年半の間に三百万人を超える国民の生命が奪われ、日本の主要都市の多くは焼け野原となった。それでも多くの市民は1931年以来15年にも及ぶ長い「戦時」から解放され、占領軍政策のおかげで、忘れていた「自由」を手にした。NHKラジオが放送する「真実はこうだ」によって、満州事変以来の日本の軍部による中国大陸への侵略の歴史が明らかになっていった。ヒトラーのナチスの数々の非人道的事件も暴かれた。
 どんどん変化する社会の中で、サッカー人としてボールを蹴ろう、試合をしよう――という気持ちは強くなった。東京では戦災を免れた東大御殿下グラウンドで秋にボールを蹴る集まりが始まった。関西は10月下旬だったかの日曜日に西宮球技場で、大阪対神戸という形式の試合をした。
 ちょうど、その一週間前に朝鮮半島の陸軍航空隊から復員したばかりの私のところへもハガキが来た。
 「生きて帰って来たか。10月×日にボールを蹴るから、ターヤン(兄・太郎)と一緒に来いよ」。差出人は則武謙(故人、第1回アジア大会代表)だった。それから毎週のように集まって、試合が行われた。
 甲子園南運動場というメッカは、大戦中に日本海軍が買い上げて軍事施設としていたから、進駐軍(占領軍)が管理し、燃料倉庫となってしまった。東京の明治神宮外苑競技場群のうち、野球場は東京六大学リーグがしばらくして使えるようになるが、陸上競技場は米軍の施設となり「ナイルキニック・スタジアム」と名が変わった。
 阪神電鉄の甲子園に対抗して、戦中に阪急電車が西宮球場の近くにつくった西宮球技場が、その頃日本での数少ない芝生のグラウンド(土盛りの片側スタンド)だったから、ラグビーの仲間も試合に集まってきた。
 明けて46年2月11日に、関東協会と関西協会の話し合いで、関東対関西(1-1)、関東学生選抜対関西学生選抜(2-2)の2試合が西宮で行われた。私は学生選抜の西軍に出場して東京の仲間と久しぶりに顔を合わせるとともに、東西対抗の独特の雰囲気を味わった。この試合のあと日本選手権(現天皇杯)を46年5月に開催することが公表された。
 交通事情の大変なときだから1か所に参加チームが終結するトーナメントではなく、西と東で予選を行って、それぞれの代表による決勝だけを東京で行うことになった。
 その関西予選は全神戸経済大学(現神戸大)と学生クラブ(京大、阪大のOBクラブ)の決勝となり、2-1で学生クが勝ったが、決勝出場を辞退したために全神経大が西の代表となった。本来なら、決勝のいずれかに関西学院の名があるはずなのだが、関学の現役(学生)とOBがそれぞれ2チームに分かれて参加したために、勢力が分散して、どちらも決勝に残れなかった。
 関東では東大LBが準決勝で慶応を破り、決勝で早大を倒して代表となった。理工科系の学生もいて、学徒出陣の壮行式(42年10月21日)のあとも、他の大学との試合記録が残っており、大戦直後までサッカーを維持する蓄えがあったと言える。
5月5日、東大・御殿下での第26回全日本選手権決勝は6-2で東大の大勝となった。全神経大に試合中3人の故障者が出たこともあるが、賀川太郎(第2回日本サッカー殿堂入り)のようなずば抜けた核を持ちながら、全体的にはアンバランスな神戸が、狭くて土の硬いグラウンドで相手の速いテンポと、強い当たりに崩壊したと言えるかもしれない。
 この年のもう一つの全国行事は第1回の国民体育大会――略称・国体の名で今に続く府県対抗の大総合体育大会は、この年、戦災のなかった唯一の大都市・京都を中心に関西で開催され、サッカーは日本選手権と同様に、東と西の予選を経た代表の決勝を西宮で行った。東は東大LB、西の代表は関西学院で、鴇田正憲(第2回殿堂入り)ら学生の関学が、大御所・竹腰重丸さんも出場した東大LBを2-1で破って初代のチャンピオンとなった。
 秋には関東、関西の大学リーグが復活し、東では早大、西は神経大が勝ち、大学1位対抗は岩谷俊夫(第2回殿堂入り)の早大が賀川太郎の神経大を破る。
 変形ながら日本選手権が開催され、関東、関西で大学リーグが再開されると、次は全関東対全関西となる。1947年4月3日、復活第1回東西対抗が行われた。進駐軍のナイルキニック・スタジアム(明治神宮競技場)の使用がOKとなり、東京でも久しぶりのビックゲーム、しかも昭和天皇の天覧試合となって、スタンドは満員となった。
 46年1月1日の「天皇は神にあらず」と自ら神格を否定された昭和天皇はこの年2月から全国を巡回して、戦争の被害を受けた国民を慰め元気づけようとされていた。スポーツ大会にはすでに明治神宮大会などにご臨席になり、サッカーも、2度ご覧になったことがあるが、戦後のスポーツご観戦は初めてだった。
 試合そのものも素晴らしかったが、試合のあとの「想定外」の場面もその場の日本人の心を一つにした。

(サッカーマガジン 2011年9月13日号)

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