賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >昭和天皇の「予想外」のお言葉に感激 天皇杯につながる47年4月3日

昭和天皇の「予想外」のお言葉に感激 天皇杯につながる47年4月3日

 1947年4月3日、東京・明治神宮陸上競技場(現国立競技場)で戦後初めての東西対抗、全関東対全関西の試合が行われた。
 東西対抗――関東対関西という形の試合は、昭和4年(1929年)に関東大学リーグ、関西学生リーグのそれぞれの優勝チームの対抗戦が、東西大学一位対抗のタイトルで行われたのが最初。この両地域は加盟チームも多く、他の地域よりもレベルが上ということで、この試合を大学王座決定戦と呼んでいた。と言っても、大学生の数や選手層から見て関東の優位は続いていたのだが…。
 その一方、1930年の第9回極東大会(東京)にJFA(日本サッカー協会)が初めて選抜代表チームの編成をして、本番でも成果が上がったところから、「選抜」にも目が向けられ、1932年に第1回全関東対全関西という「選抜チーム」による東西対抗も始まった。
 大学の一流プレーヤー、あるいは卒業して間もない元気なOBのピックアップチームの対抗戦だから、ときには驚くほどの好プレーもあり、学生チームの試合とは別の魅力で、神宮競技場や甲子園南運動場での冬のビッグイベントとして定着するようになった。単一チームの大学王座ではなかなか勝てない関西側から見ても、この全関東対全関西は互角の勝負を挑むチャンスでもあり、源平合戦の故事にならって、関東の白(源氏の白旗)に対する赤(平家の赤旗)の関西のユニフォームは、対関東への意識の象徴でもあった。
 4月3日の復活第1戦を前に、関西協会では、2週間の合同練習を開催した。コーチは当時、田辺製薬の役員であった手島志郎(第5回殿堂入り)。30年極東大会の代表ストライカーであった手島さんは17年前の原点に帰って、まず走ることを強調した。食糧の乏しい時期の激しい練習に不満顔の選手もいたが、これの効果は試合に表れる。
 交通事情は依然窮屈だった。前年の天皇杯決勝で、東上した全神戸経済大のメンバーは、夜行のデッキで立ったままということもあったが、今度の関西代表は、出発の前夜に大阪の田辺製薬の寮で一泊して昼の列車で東上した。
 メンバーの記録は手もとにないが、私の記憶では、全関西は、戦前派はFB(DF)の安居律(京大OB)、宮部芳男(関学OB)の2人と、FWのインサイド(攻撃的MF)に室山知(関学OB)だけで、あとは▽GK向井清之(京大OB)、HBの則武謙(神経大)、宮田孝治(田辺製薬)、杉本茂雄(関学)、FWの鴇田正憲(関学)、賀川太郎(神経大)、工藤裕(関学大)、瀬戸三郎(関学)といった25歳以下の戦中派。
 全関東は、▽GKの第10回極東大会の金澤宏(京大OB)をはじめ、FBの堀江忠男、高島保男(以上、早大OB)やFWの加茂健、加茂正五(以上早大OB)などのベルリン・オリンピック代表と、幻の東京オリンピック(1940年)世代のFW篠崎三郎、渡辺義良、二宮洋一(以上、慶應OB)やHBの有馬洪、横山陽三(東大OB)といったベテランがそろっていた。

 当日、メーンスタンドで観戦していた私だが、試合の経過はよく覚えていない。おそらく、試合のあとの昭和天皇のお言葉などに、心を奪われてしまったせいかもしれない  戦争で学業と練習を中断して兵役についた戦中派主体の関西に比べて、関東の戦前派のほうが技術や経験は上のはずだったが、関西の動きの速さと量が勝ってリードし、それを関東が同点にしたという流れだった。予想は関東が勝つだろうというムードだったが…。
 若さと、うまさの特徴が出た試合に観衆は沸いた。ご観戦の昭和天皇も試合の激しさ、面白さに何かを感じられたのかもしれない。
 試合終了ののち、昭和天皇は、学習院初等科の皇太子(現天皇)とともにスタンド貴賓席からピッチに下り立たれ、選手、役員が整列する前を通ってお帰りになる予定だったが、選手の前を通り過ぎようとされて、急に立ち止まり、選手たちに向かってお言葉を述べられた。
「本日は、良い試合を見せてもらってありがとう。戦後日本の復興はスポーツ精神の振興によるもの多大と思う。どうか、しっかりやってほしい。今日はありがとう」と。
 全く予定になかった昭和天皇のお言葉に、選手たちのなかには涙する者もあった。海軍の特攻隊にいた兄・太郎と同じ経験をした者も何人かいた。観衆の中から期せずして「バンザイ」の声が挙がった。
 スタンドからピッチまで駆け降りた私は、警護の米軍MPの巨大な体躯にさえぎられながら、お見送りした。「日本も良い国になった」と思った。JFA役員から献上のサッカーボールを皇太子がご自分で持っておられたのも忘れられない。
 戦禍を受けた国民を慰めようという昭和天皇のご巡幸はすでに始まっていたが、スポーツ観戦に足を運ばれたのは初めてだった。
 この試合ののち、日本代表の主力は若返ることになる。そして、天覧試合の次の年、48年7月に「天皇杯」が下賜され、高橋龍太郎会長が宮内庁で受け取った。


(サッカーマガジン 2011年9月20日号)

↑ このページの先頭に戻る