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2つの大戦の後に新しい国家

 いずれにしても、南スラブ人の国として一つにまとまるのは、第1次大戦(1914〜18年)が終わってから。つまり、5年にわたる大戦争でドイツ側についたオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、トルコもまたバルカン半島から撤退した。そしてスラブ民族の自決をうたって、まず1918年12月にセルビア・クロチア・スロベニア人王国が成立、初めてユーゴの歴史が始まった(1929年10月に国名がユーゴスラビア王国となる)。

 第1次大戦から、第2次大戦までの約20年間、ユーゴのサッカーの動きは活発だ。
 1920年のアントワープ・オリンピックに初めて参加して、同じ第1次大戦後に誕生したチェコスロバキアに0−7で大敗してから、中部欧州のレベルに追いつこうと、チェコとの親善試合やオーストリアとの交流に熱心となる。24年のパリ・オリンピックで、南米から初めてやって来て欧州を驚かせたウルグアイと当たり、0−7で大敗したのも、さらに刺激になったらしい。その後、バルカン諸国のルーマニア、ブルガリア、ギリシャなどとも国際試合を重ね、29年にスタートしたバルカン・カップにも第1回大会から参加、第4回大会には優勝するまでになる。

 30年の第1回ウルグアイ・ワールドカップに参加したのも、記憶しなければなるまい。
 欧州の強国が、南米までの長い船旅を理由に参加しなかったなかでの決断は素晴らしい。大会では、ブラジル(当時はまだレベルが低かった)とボリビアに2−0、4−0で勝って気をよくしたが、ウルグアイにはやはり歯が立たず1−6で敗れた。
 こうしたユーゴサッカーの発展は、第2次大戦とともにストップする。

 ヒトラーのドイツ軍は、ユーゴスラビア軍を粉砕し、国王ペータル2世と政府はロンドンに逃れ王国は分轄、ドイツ、イタリアの保護領となった。
 そのドイツ、イタリアの枢軸国に対して、チトーのパルチザン(武装した市民兵)が抵抗した。彼らの英雄的な解放戦が成功すると、共産主義指導のもとに人民委員会がつくられた。大戦が終わると王制ではなく、チトー元師を首班とする新政府が組織され、1945年、「連邦人民共和国」樹立が宣言された。
 スポーツクラブも社会主義国らしく、ソ連などと似た形になった。工場労働者のクラブ。軍隊のクラブ、大学のクラブなどが生まれた。


(サッカーダイジェスト 1989年12月号「蹴球その国・人・歩」)

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