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当用漢字制定で蹴球がサッカーに ロンドン五輪不参加も、明日に備え合同合宿

 9月12日に東京の日本サッカーミュージアムで、第8回日本サッカー殿堂掲額式典があり、多和健雄(故人・1918-2007年)、クリストファー・マクドナルド(1931年生まれ)、牛木素吉郎(1932年生まれ)3氏が表彰、掲額された。
 東京高等師範(現筑波大)出身の多和さんは戦後の学校教育で中学校の正課体育にサッカーを組み込むことに努力されたのが有名。体育指導者として多くの人材を育てた「大先生」でもあった。
 マクドナルドさんはマックさんの愛称で親しまれる英国紳士で、JFAの対外活動の大きな力となった人。自らも長身のGKで、外人クラブやトリック・クラブなどでプレーした。兄・賀川太郎が第一線を離れた頃にマックさんと一緒にプレーをしたこともある。体の調子が優れないようで、式の当日は子息のロジャーさんが代わってレプリカを受けられた。
 牛木さんについては、サッカーマガジンの愛読者の多くはご存じのはず。サッカージャーナリストとしての長いキャリアの上に、女子大の教授としての年齢を重ね、サッカー史研究会を始めとする多くのセミナーを主宰し、記者、コーチ、研究者などの啓発を続けている「フットボール・プロフェッサー」。
 本来なら、3人の掲額者を囲むレセプションが和やかに催されて、そこでいろいろ良い話が出るはずだったのだが、今回はJFAの創立90周年パーティの方に合流することになり、その大きな渦に巻き込まれて、ゆっくり話を聞くこともできなかったのは、いささか残念だった。
 同じ日の12時30分からホテル・グランドパレスで開かれた日本サッカー協会創立90周年記念パーティと、そのあと同じホテルでのデットマール・クラマー懇親会については別の機会、あるいは私のウェブサイトでお伝えすることにしたいが、なでしこの2011ワールドカップ優勝や日本代表のワールドカップ2010でのベスト16入りをはじめ、国際舞台での成果が相次ぐ中で90周年を迎えたのは、まことにめでたいこと。
 この90周年から、100周年までの10年の間にどこまで進化するかが楽しみとなる。

 昨年、8月24日号からスタートしたこの連載は1年を過ぎ、何回かの番外編をはさみながら、9月20日号(前号、9月27日号は番外編)で連載46回となった。
 たびたび述べているとおり、今年がJFAの90周年というところから、改めて90年を眺めてみようと考えたからで、1年少々で、1921年から大戦終結の1945年を経て、戦後のサッカー復興の大きなステップとなった1947年の4月3日の天覧試合東西対抗に至っている。
 今回は、次の大きなエポック、1951年第1回アジア競技大会とそこに向かう、いわゆる「戦後」の初期を眺めてみよう。
 JFAの機関誌「SOCCER」の復刊第1号は1948年(昭和23年)だった。手もとにある表紙を見ると、日本蹴球協会機関誌と左上方に記し、ローマ字で、SOCCERとして「復刊第1号」をその下に記している。表紙下部には英文で「THE FOOTBALL ASSOCIATION OF JAPAN」とある。戦前からサッカーのことを蹴球(しゅうきゅう)と呼んでいたのが、サッカーになったのは理由がある。大戦後の教育改革の一つとして、日常使用する漢字の範囲を定める「当用漢字」が採用され、1946年に国語審議会が決めた1850字の漢字以外は新聞や雑誌、あるいは公文書などで使えなくなった。蹴の字もその一つ。
 蹴球と表記できなくなった新聞社は、まずカタカナの「フットボール」でいこうとしたが、当時、新聞を検閲していたのはGHQ(ゼネラル・ヘッドクォーター)と呼ばれていた米軍占領軍の司令部の新聞係で、そこのアメリカ人には「フットボール」と言えばアメリカン・フットボールとなってしまう。そこで新聞社はサッカーでどうか(慶應大は戦前からソッカー部と称していた)となり、それが認められて一般の日本の蹴球人にはなじみの薄いサッカーが使われるようになった。
 ただし、機関誌ではしばらくして「蹴球」に戻る。一方、新聞や一般の雑誌はサッカーとなり、いまに至っている。
 「サッカー」談義が長くなったが、これも大戦後の社会変化の一つ。その復活第1号の中に1948年7月に静岡県三島での全日本合同練習の記事が掲載されている。前年4月の天覧東西対抗に出場した選手たちに東西の大学選手を加えた28人が参加し、10日間サッカー漬けの日々だった。JFAの理事長、竹腰重丸、関西協会会長・田辺五兵衛、関東協会理事長・松丸貞一たちがユニフォーム姿で選手たちと生活をともにした。
 同じ年の7月、ロンドンで開催された第14回オリンピック大会には、日本はドイツとともに戦争を起こした国として招待されなかった。
 まだ日本代表を編成しても、すぐに戦える国際舞台はなかったが、3年後にチャンスはやってくる。第1回アジア競技大会(1951年3月、ニューデリー)である。


(サッカーマガジン 2011年10月4日号)

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