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敗戦国日本のスポーツを活気づけた 第1回アジア競技大会実現

 2012年ロンドン・オリンピックのアジア最終予選第1戦(9月21日、鳥栖)で、日本代表は2-0でマレーシア代表を破った。
 4チームによるホーム・アンド・アウェーの初戦、ホームの有利さはあったとしても、11分の先制点だけでなく、76分に2点目を奪ったのが良かった。2得点とも、清武弘嗣の視野の広さとパスの能力によるものだが、それを90分の間に一度でなく二度(複数回)実演したことは、チームにも本人にも自信になるだろう。
 今度のU-22代表は、ここしばらくの日本サッカーの進化そのままに、体格、体力、技術面で、個性的な良い素材が多い。予選を通じて良いチームになってくれると期待したい。
 表題の日本とサッカー90年は、JFA(日本サッカー協会)創設から30年、第2次大戦という未曽有の大戦争が終結して、日本のスポーツが徐々に復活し、その最初の国際舞台、第1回アジア競技大会に参加するところから――。
 1948年7月29日−8月14日まで英国の首都ロンドンで開催された第14回オリンピック大会は、戦後のオリンピック復活を告げたが、戦争を引き起こした国、日本とドイツは参加できなかった。
 国際舞台から締め出されていた日本スポーツ界にとっての朗報は、1950年2月に、アジア競技連盟からこの第1回大会(当時の予定では同年10月、会場ニューデリー)の招待状が届いたことだった。
 アジア競技連盟というのはロンドン・オリンピック大会開催期間中に、参加した13カ国にインドが呼びかけて協議会を開き、アジアでの競技大会の開催について賛同を得て、翌年49年2月にインドの首都ニューデリーに9カ国の代表が集まり「ASIAN GAMES FEDERATION」の創立総会を開いたもの。この時、第1回大会をニューデリー、第2回大会をフィリピンのマニラで行うことも決定している。
 会期はオリンピックの中間年ということで、最初は1950年2月としたが、準備が遅れて50年10月に延期した。しかし、これも間に合わなくなり、51年3月に変更された。  この連載の中でも、すでに触れているとおり、歴史的には、極東のフィリピン、中華民国と日本の3カ国を中心に1913年(大正2年)に極東選手権大会が始まり、1934年まで10回の大会を開催した。日本サッカーも第3回から参加するようになったことはご存じのとおりだが、この極東大会とは別に西アジアの国々による西アジア競技会も34年に開催されていた(1回だけ)。
 第2次世界大戦が終わったあと、1947年3月にインドのネール首相が中心となって、アジア外交会議(ASIAN RELATION CONFERENCE)を開いたときに、アジアが一つになるスポーツ大会を開いては――といった空気があり、これを受けて、インドのスポーツ界がアジア競技大会開催を提案、ネール首相の強力なバックアップを得て開催準備が進められたのだった。

 こうした経緯ののち、アジア競技連盟から、日本のオリンピック委員会へ参加要請状が送られた。日本側は3月1日に参加を決定、発表し、アジア競技連盟、秘書会計ソンディ氏あてに参加を申し込んだ。もちろん、当時に日本を占領していたアメリカ駐留軍総司令部にもこのことを連絡し協力を要請している。
 日本参加の報が各国に伝わると、大戦で大きな被害を受けたフィリピンが、日本の参加には賛成できないとの意向を発表した。日本に占領された上、マニラ市をはじめ国土の多くが戦場となったフィリピンの国民の気持ちから見れば、当然かもしれないが、開催国インド側の努力によって、7月31日の第2回アジア競技連盟の会議で、日本の参加について次のように話し合っている。
 「フィリピン側は、フィリピンと日本の間に講和条約が締結されるまで日本の参加は反対であると述べ、同時に、この参加問題は評議員会の決定すべき事項であるとした。評議員会は、各種目の日本チームは、その種目が国際連盟に復帰を承認されると同時にアジア競技大会参加を許されるべきだと提案して、これが全会一致で可決された」(アジア連盟議事録の抜粋=第1回アジア競技大会報告書より)
 それぞれの競技の国際連盟、たとえばサッカーならFIFA(国際サッカー連盟)への加盟が認められれば、アジア大会に参加できるという評議員の決定によって、すでに国際復帰が決まっている陸上競技、水泳、サッカーなどが参加資格ありと認定され、第1回アジア大会に日本が参加することが可能になった。
 大会の実施種目が、陸上競技、水上競技、サッカー、バスケットボール、自転車、ウエイトリフティングおよび芸術競技と、改めてアジア連盟から日本側に通知があり、日本の参加準備委員会は、オフシーズンの水上競技と統括団体未組織の芸術については不参加とし、5種目80人の代表を送ることを申し合わせた。
 敗戦後、英国艦隊のチームとの試合が唯一の「国際」であった日本サッカーに、アジアでの部隊が設けられ、サッカー人は改めてアジアとインドについて感謝することになった。


(サッカーマガジン 2011年10月11日号)

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