賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >イランとの2日激闘に敗れ 戦争のブランクの大きさを知る

イランとの2日激闘に敗れ 戦争のブランクの大きさを知る

 1951年3月4日16時(現地時間)から第1回アジア競技大会の開会式が行われ、アルファベット順に11カ国の選手が入場。パチアラ・アジア競技連盟会長のあいさつ、プラサド大統領の開会宣言があり、トランペットのファンファーレ吹奏、連盟旗入場、聖火の入場点火と、オリンピック同様の形でセレモニーが進み、選手代表の宣誓で終了。次の日、3月5日から各競技がスタートした。
 日本のサッカーチームは前年の11月に31人の代表候補を決めていて、12月1日から3日までの第1次強化合宿、さらに1951年1月2日から6日まで、広島市の東洋工業グラウンドでの第2次合宿を経て、代表を決定した。選考委員は竹腰重丸、川本泰三、二宮洋一、播磨幸太郎、大谷四郎(いずれも故人)の5人。
 選手15人、補欠4人、監督1人の20人は2月10日から18日まで、再び西宮で合同練習した(19人参加)
 16人が決まったあとも問題発生。松永信夫(東京高等師範OB)が戦時中に日本陸軍の憲兵少尉であったことから国外旅行の許可に時間がかかり、大会に間に合わない。和田津苗選手と交代することになった。
 松永さんは静岡の旧制志太中(現藤枝東高校)出身で、松永三兄弟の次兄。長兄・行(あきら)さんはベルリン五輪の対スウェーデン戦3-2の逆転劇で決勝ゴールを決めたヒーロー(戦死)。信夫さんは末弟の碩(せき=早大)とともに、この大会の代表に選ばれていた。本人にも惜しいチャンスだったが、チームにとっても29歳のCBあるいはHB、体力も経験もある選手を欠くことになったのは大きな損失だった。
 参加国は、イラン、ビルマ、インドネシア、アフガニスタン、日本と開催国インドの合計6カ国。ノックアウトシステムで、組み合わせ抽選の結果、5日の1回戦はビルマ対イラン(A)、インド対インドネシア(B)となり、日本はAの勝者と、アフガニスタンがBの勝者と、7日の準決勝を戦うことになった。
 イランが2-0でビルマを、インドが3-0でインドネシアを退けた。
 7日15時4分、準決勝第1試合、日本対イランが始まった。開会式のときは空席もあったナショナル・スタジアムは、サッカーの試合には満員。この日もキックオフ前からどんどん観客が入ってきた。
 日本のメンバーは、▽GK津田幸男(33、慶大出)▽FB田村恵(23、早大出)、岡田吉夫(24、早大出)▽HB宮田孝治(27、早大出)、杉本茂雄(25、関学出)、有馬洪(33、東大出)▽FW鴇田正憲(25、関学出)、賀川太郎(28、神戸経大=現神戸大出)、二宮洋一(33、慶大出)、岩谷俊夫(25、早大出)、加納孝(30、早大出)。
 控えは堀口英雄(23、早大、DF)、加藤信幸(30、東大出、DFまたはGK)、則武謙(28、神戸経大、HB)、和田津苗(26、関大出、FW)、松永碩(23、早大、FW)
 30分ハーフ(ハーフタイム5分)、60分の試合を終えて0-0。前後半7分ずつの延長(ハーフタイム1分)を行ったが、これも0-0で引き分け、次の日に再試合となった。
 日本選手には華氏110度(摂氏43.33度)の暑さと、硬いピッチと堅いボール、そしてイランの大きな動きと、激しい当たりという未知との出会いを、ともかく、持ちこたえた。
 3月のインドは乾季で「まずノドが干上がってしまう感じに苦しんだ」とは、兄・太郎の話。
 3月8日の再試合は17時半キックオフ、華氏85度(摂氏29.44度)と気温は少し低い。日本のメンバーは第1戦と変わらず、イランも1人代わっただけだった。
 今度は日本がよく攻めた。
 開始2分にPKのチャンスを決めなかったのは惜しく、20分にスローインから1点を奪われたが、後半13分に左の加納からのクロスを鴇田が決めて同点、22分にイランがFKから2点目を取ると、日本は27分に見事なパス攻撃から鴇田−二宮とわたって2-2とした。しかし、イランはまたまたFKから3点目をもぎ取る。タイムアップ直前の日本のチャンスはシュート失敗で、イラン−日本の2日間134分におよぶ戦いはイランが制して、決勝でインドと戦うことになり、日本はアフガニスタンと3位をかけることになった。
 日本のゴールはパスをつないで、両サイドからクロスを決めたもの。イランは、スローイン(ロングスロー)と2本のFKからの押し込みと、3ゴールとも長身を生かした空中戦とその後のラッシュによるもの。
 今から思えば、手の打ちようがあったはずだが、できなかったのは戦争によるブランクの大きさということだろう。3位決定戦は負傷者に代えて加藤(杉本)、則武(賀川)、松永(二宮)が出場。岩谷のゴールで2-0で勝った。イランと同タイプだが、力は少し下のアフガニスタンを相手に2試合の経験が生きた。
 人気種目のサッカーで日本がそこそこの力を見せ、また、陸上競技などでの大量の金メダル獲得があって、スポーツの国際舞台への復帰は戦災からの復興に向かう日本の社会の明るい話題となった。もちろん、まだまだ問題は残っていたが…。


(サッカーマガジン 2011年10月18日号)

↑ このページの先頭に戻る