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60年前、来日スウェーデンチームが もたらした驚き、世界潮流

 太平洋戦争の終結から6年後、1951年3月、インドのニューデリーで開催された第1回アジア競技大会に日本が出場。戦後初めての国際大会で3位となった。
 初めて経験する南アジア・インドでの大会で、これも初顔合わせのイランとの準決勝、0-0のあとの敗退。3位決定戦の対アフガニスタンの勝利(2-0)で銅メダルとなった。選手兼任の二宮洋一監督のリポートによると、決勝でイランを破って(1-0)優勝したインドとイランと日本の3国の力はほとんど変わらず、他のチームより一段上ということだった。
 イランは現在でもアジアの強国の一つ。この15年後の第5回アジア大会で杉山隆一、釜本邦茂たちの日本代表はイランに苦戦し、ドーハでの94年ワールドカップ(W杯)予選で三浦知良たちは彼らに足を引っ張られ、98年W杯予選で中田英寿たちが最後に破ってフランスへの道を開いた。
 60年前の先人たちは、イランとアフガニスタンと言う両国との対戦で、自分たちの伝統の組織プレーが彼らのパワーに通じるところ、通じないところを知り、またサッカーが一番人気のアジアで勝つことの困難さを感じたのだった。
 こうして新しく海外への扉を開いた日本サッカーは、この年の秋にもう一つの「国際イベント」で大いに盛り上がることになる。
 それは11月に来日したスウェーデンのクラブチーム、「ヘルシングボリ」との試合だった。
 スウェーデンといえば、大戦前の日本サッカーが最大の「誇り」としていたベルリン・オリンピックで大金星を挙げた相手国――しかも、大戦後に開かれた第8回オリンピック・ロンドン大会の優勝国でもあった。サッカーだけでなく、あの湯川秀樹博士(1907-1981年)のノーベル賞受賞も(敗戦気分の日本人に力を与えた)スウェーデンという国に親しみを持たせ、大戦中に中立国として平和を維持したことも「平和日本」を目指す人たちにとっての憧れでもあった。

 51年11月22日、トルステン・テグナー団長と4人の役員、16人の選手合計21人は、羽田に着き、翌日の東京駅12時半の特急「はと」で西下した。彼らは日本代表(当時は全日本選抜といった)との2試合を含む5試合を11月23日から12月2日までの10日間でこなし、5勝全勝、12月4日に日本を去った。
 日程とスコアは▽23日 5-0全関西(西京極)▽25日 3-0全日本(西宮)▽27日 13-0全九州(八幡)▽28日 原爆孤児慰問試合(広島)▽1日 7-0全慶應(大宮)▽2日 5-0全日本(神宮)
 来日したクラブの正式名称はヘルシングボリ・イドロッツフレニング(ヘルシングボリ・スポーツクラブ)で、スウェーデンの南端、海を隔ててデンマークのコペンハーゲンと相対する人口7万人の港町にあるクラブで、スウェーデンのノンアマリーグに所属している。48年のロンドン五輪に優勝したスウェーデン代表の多くは、イタリアをはじめ西欧のプロとなったが、ナショナルリーグの多くは、別に職業を持つアマチュア。来日チームはGKカール・スベンソンやMFのスウェンオベニ・スベンソンら代表経験者が7人いた。
 当時京都に住んでいた私は関西での2試合を観戦したが、西宮球技場の芝生スタンドが超満員だったのに驚いたのを覚えている。東京の明治神宮競技場(現国立競技場)も観客でいっぱいになり、このあと東京ではプロ・サッカーをつくろうという声がスポーツ関係者の間で持ち上がるきっかけとなった。
 第2の驚きはスウェーデン選手たちのテクニックの高さだった。
 長身で、足が速いことは、ベルリン五輪で日本代表が経験しているが、その時に伝え聞いた「力強さ」というより、巧みさと、身のこなしのスマートさ、そしてパスワークの良さが目立っていた。
 対戦した日本代表は、西宮では▽GK津田幸男、FB加藤信幸、岡田吉夫、HB宮田孝治、松永信夫、有馬洪、FW鴇田正憲、賀川太郎、岩谷俊夫、川本泰三、加納孝だった。3月のニューデリーのセンターハーフ(いまのCB)に杉本茂雄に代わって松永、FWに二宮洋一に代わって川本が入っていた。
 来日したテグナー団長の第一声が「ベルリンの借りを返しに来た」であり、川本さんに会うと、「バッドボーイ」と言ったという。
 その川本さんにとっても、スウェーデン選手のプレーが15年前とは全く違っているのは驚きだったようだ。と同時に、この人が年来唱えてきた「サッカーはボールのテクニックが第一」をスウェーデンも実行しているところに世界のサッカーの潮流を感じ取ったらしい。
 西宮の試合は、前半30分までよく防いでいた日本に小さなミスが出た。そこからヨンソンのボレーシュート、それが宮田の肩に当たって方向が変わってゴールするという不運の失点で先制された。もちろんミスが出たのはボールの処理能力の問題で、そこには開きがあったと言える。
 そのボール処理のうまさは、彼らの話すところによれば、ブラジルから学んだというのである。


(サッカーマガジン 2011年10月25日号)

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