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1952年ヘルシンキ・オリンピック マジックマジャールに見る世界の変化

 太平洋戦争の終結から5年を経て、1951年に国際舞台への復帰を認められた日本サッカーは、同年3月の第1回アジア競技大会に参加(3位)して大きな刺激を受け、その年11月〜12月にスウェーデンから来日したヘルシングボリ・クラブのプレーで、世界のサッカーの一端を見た。
 この年1月、北朝鮮軍の韓国侵入に始まった朝鮮半島での戦争は、国連軍の応援を得て韓国が戦勢を挽回して7月には休戦となった。この戦争によって、日本国内は景気が上向き、大戦直後の「全くの焼け野が原」の状態からの復興のピッチが進むことになる。9月のサンフランシスコ講和会議で、対日和平条約が(ソ連は別として)締結されて日本の独立が認められ、スポーツ界の「国際」への願いがさらに強まった。
 その第1の目標は1952年(昭和27年)7月のヘルシンキ・オリンピック大会だった。もちろん、冬のオリンピックもあった(1月ノルウェーの首都オスロ)。日本はスキーとスピードスケートに参加したが、スピードスケート500メートルの高林清高の6位が最高だった。スキーのホープ、高校生の猪谷千春(現IOC委員)も参加したが、メダルは4年後を待つことになる。
 ヘルシンキでの第15回大会は69カ国、約5000人の参加で、7月19日から8月3日まで開催された。
 日本からは陸上競技、水泳、体操、レスリング、馬術、自転車、漕艇、ボクシング、ヨット、フェンシング、重量挙げ、射撃の12種目、69人が参加。サッカーやバスケットボールなどの団体は外貨事情もあって選手を送ることができず、視察員(竹腰重丸)派遣だけとなった。
 チェコの「人間機関車」エミール・ザトペックが、5000メートル、1万メートル、マラソンの3種目に優勝して大ヒーローとなり、ジャマイカ勢とアメリカ勢の400メートル、800メートルでの大接戦などが評判だった。
 日本の選手団は、陸上、水泳で振るわず、体操とレスリングのメダル獲得が話題となった。

 サッカーは25カ国が参加して、まず16カ国に絞るための9試合の予選を行ったのち、ノックアウトシステムの本番に入っている。ハンガリーは予選でルーマニアを2-1と僅差で破ったあと、イタリア(3-0)、トルコ(7-1)を1、2回戦で退け、準決勝でスウェーデン(6-0)に大勝、決勝でユーゴスラビア(2-0)を倒して初優勝した。3位決定戦はスウェーデンが西ドイツを2-0で下した。
 日本と同じ大戦を引き起こして48年大会に参加できなかった西ドイツが、ベスト4に進出したのも驚きだったが、「鉄のカーテン」の向こう側のソ連のオリンピック初参加も注目された。
 優勝したハンガリー代表は、フェレンツ・プスカシュ主将とそのイレブンのテクニックと戦術、のちにMF型FWと言われる突出した2人のインサイドFWと中盤に下がり目となるセンターFWの配置なども興味を持たれたはずだが、このアマチュアのナンバーワンが世界を驚かせるのは、次の年、1953年に聖地のウェンブリーでイングランド代表を6-3で撃破してからである。それまでホームで無敗を誇っていた「本家」、しかも、サー・スタンリー・マシューズやビリー・ライトといった大スターの軍団を相手にしての完勝だった。
 竹腰さんのヘルシンキ・オリンピック報告はJFAの機関誌(53年1月号、4月号、6月号=当時は隔月間)に上、中、下と3回にわたって掲載されている。大会だけでなく、イングランドのプロリーグなども見ていて、いま読み返しても面白いが、オリンピックのレベルについては、3位となったスウェーデン代表が、前年来日したヘルシングボリより強いとは言えないこと(アマチュア規定の関係)、日本で活躍したベングトソン選手が代表でも働いたことなども伝えている。
 ヘルシングボリのときもそうだが、当時でいうHB、いまの守備的MFの動きが大きくなり、攻撃参加にも力を発揮していること、また、FWが守備にも力を注ぐこと(とくにハンガリーが目立ったこと)なども記している。
 1936年には優勝候補を破ってベスト8に進んだ日本代表――、そのときの日本イレブンの全力を振り絞った運動量よりも、ヘルシンキ大会のトップ級チームの活動量の大きいこと――を記し、51年の日本代表が、彼らと戦うためには格段の精神が必要と結んでいる。
 私たちは、国際舞台に出られるようになった日本サッカーの前には、どんどん進化している世界の姿があることを知った。貧弱な環境に置かれている当時の日本との間の開きの大きさを認めつつも、私たちはまず、ボールテクニック、まず体力アップから始めなければならなかった。


(サッカーマガジン 2011年11月8日号)

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