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若者たちにヨーロッパを感得させた 画期的な53年国際学生スポーツ週間への参加

 ワールドカップ・アジア3次予選C組の11月シリーズ、日本対北朝鮮のアウェー試合に、国交のない北朝鮮のピョンヤンへ、日本からの応援ツアーが出かけるらしい。
 国交がないと言えば、初めての日韓戦となった1954年のワールドカップ予選のときもそうだった。当時の韓国の李承夜大統領は、日本選手の入国をOKしなかったため、2試合とも東京で行ったのだった。2年後のメルボルン五輪予選も同じ。その日本と韓国の交流の変化の大きさは目を見張るものがある。北朝鮮との間は簡単ではなさそうだが、サッカーという道が少しずつでも広がってくれると良いのだが…。
 日本とサッカー、90年の今回、第53回は、その54年の前年の話――。

 1945年の大戦争の終結から8年を経て、日本サッカーの復興は徐々に進んでいた。
 51年の第31回大会から「天皇杯」の名を冠するようになった全日本選手権大会は、2年続けて慶應BRBが決勝で大阪クラブを破って優勝した。戦前派の二宮洋一(第1回アジア大会監督兼選手)がリーダーで、相手の大阪クラブはベルリン・オリンピックのCFで戦前派の川本泰三や、賀川太郎、岩谷俊夫(第1回アジア大会代表)といった戦中派の各大学OBの集まりだった。
 53年大会に大阪クラブは3度目の決勝に進出したが、今度は全関学に延長で敗れた。ここも鴇田正憲(第1回アジア大会代表)という28歳の戦中派がリーダーだった。こうしたチームは、それぞれに特色があり、その対決は見る者を楽しませたが、チーム構成から見て「伸びしろ」を大きく期待するのは無理のように見えた。
 大戦後の新しいイベントとして、48年に創設された全日本実業団選手権大会も、年々参加チームが増え、レベルアップもした。50年の第3回大会から田辺製薬が優勝し、53年の第6回大会まで4連勝した。ここも、賀川太郎、鴇田を軸とした戦中派の優秀選手が主力だった。
 年齢の高い選手の活躍は決して悪くはないが、それを追い上げる若い力がほしいと願う日本協会(JFA)は、52年1月3日〜6日まで第1回全国大学選手権を開催し、学生選手に刺激を与えた。関西の有力校は不参加だったが、鹿児島や岩手からの参加もあって全国的な関心の高さが見えた。ノックアウトシステムで、東、慶、早、立教が準決勝に残り、東大が優勝した。のちのJFA会長岡野俊一郎が中心だった。
 大会が増え、試合も多くなった。向上の兆しは見えているが、トップクラスのレベルアップは顕著とはいえなかった。
 51年の第1回アジア競技大会に始まり、スウェーデンのクラブ、ヘルシングボリの来日、そしてさらにヘルシンキ・オリンピックで見たハンガリー代表の新しいスタイル――。そういった世界の変化に対応するためには、まず、若い人材にヨーロッパを体験させ、肌で感じさせることが一番だ――、と自らの若い成長期と重ね合わせた竹腰重丸を始めとするベルリン世代の指導者たちは考えていた。そこに一つのイベントが現れた。53年8月に西ドイツのドルトムント市で開催される国際学生スポーツ週間というFISU(国際学生スポーツ連盟)の主催する総合スポーツ大会だ。
 のちにユニバーシアード(大学生スポーツ大会)と改称し、今も続いているこの大会に、サッカー関係者は、選手派遣に踏み切った。
 選ばれたプレーヤー17人は、▽GK村岡博人(東京教育大=現筑波大学)、玉城良一(立教大学)▽DF平木隆三(関学大)、山路修(早大)、三村恪一(中央大)、岩田淳三(関西大)▽MF井上健(関学大)、小田島三之助(早大)、山口昭一(明大)、高林隆(立教大)▽FW鈴木徳衛(慶應大)、小林忠生(慶應大)、木村現(関西大)、長沼健(中央大)、岡野俊一郎(東大)、筧晃一(関西大)、徳弘(水野)隆(関学大)。
 役員は監督・竹腰重丸、コーチ松丸貞一、マネージャー大谷四郎の3人。合計20人の選手団は、7月24日に出発し、8月9日〜16日の大会に参加したのち、スウェーデン、フランス、英国、スイス、イタリアなどを周って、9月15日に帰国するという50日に近い大旅行、試合をすると同時にヨーロッパの文化に触れ、スポーツを学んで帰ろうという計画だった。
 財政の苦しい、JFAではあったが、遠征の総計額、約1300万円は、参加選手の母体となる各大学や府県協会から1人分合計30万円を集め、政府補助や寄付金を加えることでまかなえることになった。
 収支予算書を見ると、当時のレートは1ドル360円で、今の円高とは大違い。外貨枠の厳しい折ではあったが、航空運賃合計2万6000ドル(ヨーロッパ往復一人1300ドル=46万9000円強)となった。
 関学を卒業して中央大へ学士入学し、中大の選手として参加した長沼健さんは、ことあるごとに「若い私たちにヨーロッパを十分吸収させようと計画してくれた先輩たちの心の大きさに頭が下がる」と語っていた。
 彼らにとって、出発の前に、ドイツの強チームと対戦したことも幸いだった。


(サッカーマガジン 2011年11月15日号)

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