賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >53年FISU大会国際試合の大健闘 オッフェンバッハとの対戦が陰の力に

53年FISU大会国際試合の大健闘 オッフェンバッハとの対戦が陰の力に

 1953年6月、西ドイツからオッフェンバッハ・キッカーズ・クラブがやってきた。
 このクラブは大都市フランクフルトに近いオッフェンバッハとう小都市にホームを置き、当時は南ドイツリーグに所属していた(ブンデスリーガ=全国リーグの創設は64年)。1901年創立の古い歴史を持ち、50年にドイツ選手権準優勝の実績を持つ。強チームのそろう南部リーグでもトップ級。52-53年も4位だった。来日したときの監督、パウル・オズワルド(1905年-93年)はのちにアイントラハト・フランクフルトの監督となり、ヨーロッパ・チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)の決勝(60年)でレアル・マドリードと戦った――といえば、ヨーロッパ通の読者ならご存知の方もあるだろう。
 モーラー会長や監督、役員3人と15人の選手たちは、6月5日に来日、7日に対全関学(西宮)、11日に対日本学生選抜(神宮)、14日に対戦日本選抜(同)と、3試合を行い、それぞれ5-1、2-0、9-0と力の差を見せつけて3戦全勝した。
 第1戦では、折から関西地方を襲った季節外れの暴風のために、激しい風雨の悪コンディションの中でしっかりしたボールテクニックと、体のバランスの良さに私は感嘆した。  第2戦は国際スポーツ週間(FISU大会=前号参照)に参加する学生選抜が大健闘して、ワンサイドながら、2失点に食い止めた。
 学生選抜の健闘で全日本への期待は高まったが、90分を終わってみれば0-9の大敗。一方的に押し込まれた学生選抜と違って、ボールを持って、ときには攻勢に出る全日本は、動きが大きくなってスキができる。ボールを奪われ、そこを突かれて失点する形になり、前半は0-2ですんだが、後半20分に4点目を取られたあとは、体力、走力差が目立って、点差は開く一方となった。
 私にとっては、51年のヘルシングボリ・クラブのボールテクニックとスピードも驚きだったが、このドイツのクラブの休むことのない動きと、競り合いの強さと速さが収穫だった。
 コーチ兼MFのホルト・シュライヤーが講習会で説明したパスを受ける動きも面白かった。「日本は1人しか動いていない。数人が動いて、可能性を多くしなければならない」と説明した。動いてつなぐ、ショートパスばかりでなく、全日本選抜のDFが空中戦が弱いと見ると、それまでと違って長身のCFプライゼンドルファーの頭上へロングボールを送ることも辞さなかった。
 選手はすべてサッカーの他に職業を持つセミプロ(まだドイツにフルタイム・プロはなかった)で、その突破力を見せつけた19歳のエンゲルベルト・クラウスは「オリンピックには自分たちより下のレベルの選手が出る。ボクの目標はワールドカップの西ドイツ代表」と言いきった。
 彼らが私たちに与えたインパクトも大きかったが、このチームの猛攻を2失点に防いだ学生選抜の「諦めない戦いぶり」はドイツ人に強い印象を与えたようだ。シュライヤー・コーチをはじめ、オッフェンバッハ側は、学生チームがドルトムントへ来るなら、大会前の準備に協力すると約束してくれたのだった。

 1953年7月24日、羽田を出発した学生選抜チームは27日にフランクフルト経由、オッフェンバッハに入り、8月1日まで滞在。「日本を訪れたときに、とても親切にしてもらった。今度は自分たちが世話をする番だ」というモーラー会長の言葉どおりの歓待を受けた。
 東京の試合での好守で注目されたGK村岡博人や玉城良一の練習ではオズワルド監督が直々にシュートし、またプライゼンドルファーがヘディングを指導してくれた。8月1日のオッフェンバッハとの試合は、一方的に押し込まれるのではなく、何度かのチャンスをつくり、7点奪われたが、木村現と岡野俊一郎のシュートで2点取ることができた。
 2日にギーセンへ移動して、ここのクラブと試合(1-1)し、このあとデュッセルドルフに滞在したのち、7日に大会会場のドルトムントへ。9日にはいよいよ国際学生スポーツ週間が開幕した。
 21カ国が参加した午後4時からの開会式のあと、サッカーの第1戦、開催国のドイツ対日本が行われた。
 各国選手団を含む3万の観客でスタンドはいっぱい。日本はGK村岡、FB平木隆三、三村恪一、HB小田島三之助、山路修、高林隆、FW鈴木徳衛、小林忠生、木村、長沼健、徳弘(水野)隆のラインアップ。
 日本の先制ゴール(小林)に始まり、ドイツが追いつき、後半(小田島に代わり井上健)17分にFKから1-2、それを8分後にまたタイにする(木村)といったシーソーゲームとなり、そのあとヘディングでリードされ、小林のヘッドで再び3-3となったが、CKから4点目を奪われてしまった。
 大激戦に敗れて宿舎へ引き上げ、食堂に入った日本チームを迎えたのは各国学生選手たちのスタンディングオベーション。優勝候補のホスト国と激闘の末敗れた者への拍手だった。日本選手たちは、このときサッカーが世界に通じる言葉であり、スポーツの素晴らしさを知ったという。


(サッカーマガジン 2011年11月22日号)

↑ このページの先頭に戻る